ツール・ド・東北はいま。10年目を迎え、被災地と共に歩み続けた自転車イベントのこれまでと、これから
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東日本大震災からの復興を掲げ、2013年にスタートしたツール・ド・東北が今年で10回目を迎える。沿道の暖かい応援や、エイドステーションの活気はもちろん、被災地域の“いま”を知り、現地を走れる大会として、国内でも屈指の人気を誇るサイクリングイベントへ成長してきた。
しかし、発足当初はまさに苦節の連続だったという。そして復興を遂げる被災地を、ツール・ド・東北はどのように見つめ、何を伝えてきたのか。
お話を伺ったのは、当初より中心人物として大会を取りまとめてきたヤフー株式会社 ツール・ド・東北 足達伊智郎 事務局長。大きな節目を迎える前に、改めて振り返りたい。
10年続ける自転車イベントの必然性
2011年3月11日に発生した大地震よって、日本に大きな衝撃が走った。特に東北地方の太平洋沿岸地域は、大津波によって甚大な被害を受けた。その状況を目の当たりにした私たちは、「復興」をテーマに掲げ、被災地のために今できることを手探りしているような状況だった。ツール・ド・東北構想が生まれたのも、そのような時期だったという。
「当時の日本にとってもヤフーにとっても、東日本大震災からの復興というのが最大の課題でした。過去にないほどの甚大な被害じゃないですか。これは相当長期にわたって支援を続けなければ、という意識でした」
インターネットのメディア企業として長期的な支援という観点で考えたときに、最も貢献できるのが「記憶の風化を防ぐことだった」と足達さんは言う。
「1年に1度、東北に思いを馳せて足を運び、それをきっかけに震災を思い出す。それができるのはやはりイベントではないかと」
そこで白羽の矢が立ったのが、自転車だった。当初、ランニングやクルマなど、地域を巡るさまざまな手段を検討したという。だが、南北400kmにわたるエリアを知るには、サイクリングイベント以上にいい答えはなかったそうだ。
「ランニングだと40kmが限界、クルマだと実感が湧かない。自転車であれば1日200km走れば2日で完走できる。五感で現地を感じてもらえる、そういう意味で必然的に自転車のイベントに定まったんです」
そして長期的に支援を続けるというコンセプトに則り、具体的な数字として10年連続開催という目標を掲げた。
「最低10年は続けることを目標にしました。これは本当によかったと思う。もしそう言ってなければ、さまざまな条件が変わったり、コロナ禍でリアルの大会が中止になったり、やっぱりくじけることもいっぱいあったわけです。そういう意味でも、最初から宣言したという覚悟はすごくよかった」
ノウハウも組織も予算もすべてがゼロ
しかし、ここからが困難な道のりのはじまりだった。前提として、主催するヤフーの社内には自転車イベントのノウハウもなければ、組織も予算もなかった。そんな中、ヤフーの多くの社員がボランティアに近いかたちで関わる。復興支援にかける社員の熱量で第一回はつくられた。当時、ヤフーで広告営業を担当していた足達さんもその中の1人だった。
このイベントを長く続けるには会社の予算のみに頼るのではなく、多くの企業から協賛金を集めるカタチが重要だと当時の社長に言われ、その役割を任される。どんな大会になるのか自分でもイメージできてないなか、一社一社訪問し、多くの企業の協力を得ることができた。
自転車イベントの運営についてはパートナー企業と協力し、現地視察を重ねてコース設計から進めていったそうだ。日本を代表する大企業の主催するイベントが、いい意味でここまで人間臭いとは、誰が予想しただろう。
大会準備を進める上で、ソフト面での重要な役割を果たしたのが宮城県仙台市に本社を置く河北新報社だった。
「被災エリアを通るコースを作り、復興を実感してもらう。これは東京の企業がやりたいと言っても難しいことで、地域との信頼関係がある河北新報というパートナーがいたから実現できたことです」
初開催は2013年11月3日。その時期の東北は天気が悪ければ、小雪が舞うことも珍しくはない。だが、願いが通じたのか当日は汗ばむほどの快晴。1,316人のサイクリストが被災地を駆け抜けた。
沿道で「応援してたら、応援されてた」が生まれた日
第1回大会を通じて、地元内外からさまざまな反響が寄せられたという。特に参加したサイクリストにとって、沿道からの力強い応援は大きな勇気と変わった。
「仮設住宅から出てきたおばあちゃんたちが、沿道のライダーに『頑張れ』と声をかけてくれました。その光景に涙が溢れて走れなくなったサイクリストもいたそうです。沿道の応援は、あくまでも自発的なものだから、運営側ではコントロールしようがありません。このような声が聞けたということは、ツール・ド・東北の価値だと思いますね」
勇気付けられたのは、何もサイクリストだけではない。沿道で応援していた地元の人々にとっても忘れられない記憶となったそうだ。
「地元の人たちから印象的な話を聞きました。震災以降は『頑張ってね』と励まされることばかりだったそうなんです。でもツール・ド・東北のコースってきついでしょ。だから沿道でサイクリストに『頑張れ頑張れ』と声をかけて、久しぶりに人を応援したことに気付いたといいます。自分が応援する側の人間にもなれることが、地元の勇気に変わったと」
数え切れないほどの沿道の応援が、お互いを勇気付けていた。雲を掴むような面持ちで臨んだ大会は、地元東北に大きな希望を与えた。そしてキャッチコピーである「応援してたら、応援されてた」がここに生まれたのだ。
サイクルツーリズムで東北を自転車の聖地に
その後も、コースを増やしたり、定員上限を引き上げたり、ツール・ド・東北は歩みを止めることなく、毎年進化を遂げていった。スタートしてから5年経った頃に、もうひとつの柱が加わったという。それが「観光資源としてのサイクルツーリズムを東北地域で盛り上げたい」という考えだった。
「当初、宮城の沿岸部でロードバイクに乗っている人なんて当然いませんでした。でもツール・ド・東北を始めて2~3年経ったころから、サイクリストを時々見かけるようになったんですよ。普段から走っている人がいるのだったら、これはすごくいいことじゃないって。地元の人たちも『ひょっとしたら自転車で町おこしができるんじゃないの』という感覚が生まれたみたいで」
その動きは着実に前進している。今年にはツール・ド・東北の開催自治体でもある女川町、南三陸町、気仙沼市の町長や副町長、観光課部長らで、しまなみ海道を視察し、実際に70kmを完走したそうだ。それだけツール・ド・東北が地元に与えている影響は計り知れない。
長期的支援を前提に大会の10回連続開催を掲げていた。だが、真の意味での支援は、地元の人たちが主体となったサイクルツーリズムの動きを後押しすることだ、と足達さんは語る。
完全復活、そして伝説のツール・ド・東北へ
そして2023年、コロナ禍を経てツール・ド・東北が完全復活する。定員数やコース数は昨年よりもパワーアップし、賑やかなエイドステーションの風景も戻ってくる予定だ。土曜日にはライダー以外も参加できるイベントを開催し、10回の節目を盛り上げる。
今年度の大会を語る足達さんが嬉々として取り出したのが、2023年版のオリジナルジャージだ。
「ボディにはテーマカラーのグリーンを、そして袖には華やかなピンクを配色しました。この色をどんなデザインで表現するか苦戦したのですが、どうにか仕上がりました。ハートのピンクです(笑)」
足達さんはお茶目にハートと言うが、この色はツール・ド・東北がもたらす温もりを表しているのだろう。エイドステーションで響き渡る「おかえり」の声、沿道で聞こえてくる数多の声援。これは走った人だけが感じられるあたたかさだ。
最後に足達さんは言った。
「イベント運営側は黒子的存在で、本当に大変なんですけどね。それでもイベントのラストに、参加者が横一列でゴールする瞬間。あの景色にいつも勇気をもらっています。そして多くの方のツール・ド・東北への期待と応援の声に励まされてどうにかここまでやってきました」
今年のツール・ド・東北は2023年9月16日〜17日。全国からのサイクリストが集結し、心地良い風になって地域全体を駆け抜ける。活気ある声援が東北の道に響き渡る日は、もうすぐだ。