全日本最速店長選手権 ペダリスト山崎店長「俺のこだわり、聞いてくれ」“髪の色についてのお話”
目次
シャンパン+シューズの意味
最速店長選手権の勝者ということで頂いているこの連載。あの表彰台での「シャンパンをシューズで飲む」というパフォーマンスについて、中島編集長から質問があったので改めてお答えします。
あれはF1のダニエル・リカルド選手が表彰台でやる、シグネチャーのような行為です。僕が最速店長選手権に出始めた辺りから、お客様に「僕が勝ったら絶対やるからね」と伝えていました。
3、4年かかっちゃいましたけど、達成できました。もう店長選手権に心残りはないかな、と思った瞬間でした。ですからあの「もう出ません」宣言をしたんですが、今はまた出たいと思い直していますよ。
F1はアイルトン・セナが走っていた頃、小学3、4年生ぐらいからずっと見ていました。僕には5つ上の兄がいるんですが、兄がF1が好きだったので、その影響です。
当時はセナがカッコいいなと思っていました。まさか自分がセナより年上になる時が来るとは思わなかったです。夜中に放送していたので、いつもは朝に録画した番組を見ていたんですが、その朝のテレビは、どのチャンネルも「セナが亡くなった!」という報道ばかりで、すごく衝撃的だったのを覚えています。もう30年も前の話なんですね。
ピナレロが強い中 見ていたのは銀の髪
自転車も兄の影響で始めました。5つ上で子供としては年も離れていて、けんかすることもなく、兄の後をついていくという形でした。
自転車に乗る前は、ずっと少年野球をやっていました。土日をずっと野球に費やしてきたんですが、中学2年生の時に、急にチームスポーツが嫌になったんです。それまでレギュラーとして試合に出ていたのが、突然出られなくなって。それをコーチに伝えたら「お前のそういう態度がダメなんだ」って言われて急に冷めて。そんな時に兄に自転車乗りに行こうと誘われたんです。兄はロードバイクで、僕はマウンテンバイクで。
何とかついていくようなライドばかりでしたが、それがすごく楽しくて。そこから本格的に自転車が始まりました。その後の96、97年ぐらいからツール・ド・フランスを見始めて、さらにハマッていきました。
ずっとミゲル・インドゥラインが強かったんですが、96年にビャルネ・リースがツールを勝ったんでしたね。そして翌年にヤン・ウルリッヒが勝利です。あの時に彼らが乗っているピナレロを見ていて、まさか自分がピナレロショップの店長になるとは思わなかったです。
ただ残念ながら、当時僕が好きだったのは、プジョーのバイクに乗るリシャール・ヴィランク(フェスティナ)でした。98年のドーピング、いわゆる『フェスティナ事件』の時に、髪の毛が銀色だったのがめちゃくちゃかっこよくて、母親に髪の毛を銀色にしたいと言ったら、すごく怒られました。
高校時に茶髪にしたのは超有名な先輩が原因
高校の時の僕は、1人自転車部で、髪の毛を茶髪にしていたんです。その原因を作ったのは同じ神奈川県の先輩です。後にプロ自転車選手になって渡欧した、超有名な選手です。地元辺りではとにかく無双で、しかもしっかりとした茶髪でした。僕らもその先輩の茶髪に憧れて、強さの秘密は茶髪にあり、先輩に続け! なんていう具合に。
ですが当時、全国大会では、そんな髪の毛をしているのは神奈川と埼玉の一部選手ぐらい。他の地域の選手はほとんどが坊主頭で、THE部活! という感じでした。
大会には、それでも黒くしていったつもりでした。でも黒くなりきっていなかったようで。開会式の後にもう1人の神奈川県選手と一緒に大会役員に呼ばれました。「髪の毛黒く染めなかったら、入賞しても失格にするからな」と言われて。
それはまずい、と大浴場で染め直しました。部屋にお風呂がなかったので。で、5年前ぐらいに、同じ宿に泊まって、その大浴場に行ってみたら何も変わっていないんです。感慨深いものがありましたね。
今はもう、染めたいって言えば、それこそ奥さんが美容師なのですぐに染めてくれます。その設備も我が家のお風呂にあるんですけれど、髪の毛の色では結構いろいろやって痛めつけてきたので、もういいかなと。これからは毛根を大切にしていきたいと思います。
PROFILE
第12代目最速店長
山崎泰史
やまざきやすし 第12回全日本最速店長選手権・優勝、『ペダリスト・ピナレロショップ横浜』店長。神奈川県出身、一時は競輪選手を目指したこともあるガチのアマ選手。
ペダリスト ピナレロショップ横浜
神奈川県横浜市西区高島町2-3-21 ABEビル1F