旧街道じてんしゃ旅 食の街道編 鯖街道をゆく 一日目

目次

ツアーイベント会社(ライダス)の経営者(井上 寿。通称“テンチョー”)と自転車メディア・サイクルスポーツの責任者(八重洲出版・迫田賢一。通称“シシャチョー”)の男2人、“令和のやじきた”が旧街道を自転車で巡る旅企画。今回の旅は京都と福井県小浜を結ぶ「鯖街道」。若狭の海の幸を京へ届けた交易の道をを巡るじてんしゃ旅へいざ出発。

古より京へ魚介を運ぶ道だった「針畑越え」。現在は鯖街道の愛称で呼ばれている

食は旧街道じてんしゃ旅の魅力

「井上はん、次の旧街道じてんしゃ旅のテーマはどないしましょ何かアイデアありまっか?」
前回のロケの終わり、打ち上げの居酒屋でシシャチョーが尋ねてきた。宴もお開きに近くなった頃で、シシャチョーはほどよく酔っ払っているようだ。右手にはいつものようにハイボールのグラスが握られ、左手にはししゃもの丸干しが握られている。

「そうですねぇ……。五街道もやりましたし、幕末・明治維新もやりました……。うーん、悩みますね……。」
「そうでっしゃろ。旧街道に関係する旅っちゅうたら……浮世絵とか……造り酒屋とか……参勤交代……」とつぶやきながら、左手のししゃもにかぶりつくシシャチョー。

その姿を見てはたと気がついた。

「そういえば迫田さん、僕ら旧街道を旅しながらいつも名物を食いたいって言ってますよね!それでいて到着が遅くなったりして食べられないことも多い!」
と筆者。
「確かに!いつも地元の料理食いたいって言うても結局疲れたり遅くなったりして、そのへんの店入ってしまってますなあ」と残りのししゃもを口に放り込みながらシシャチョーが興奮気味に言う。

「それに参勤交代と言えば諸藩の名物を幕府に献上するのが習わしだったんですよ!地元の名産が江戸に運ばれて食文化が花開いたとも聞きます!」
「そうか!食べ物や!旧街道には食べ物にまつわる話がいっぱいあるっちゅうことでしたな!それいきましょ!ロケでうまいもん食えるし!」
こんな流れで今回の旅のテーマはいつもどおりに居酒屋での飲みの席で「食の旧街道」に決まったのだった。

ところで江戸時代に制定された五街道をはじめとする街道は当時の物流の大動脈だった。宿場町が整えられ、馬や牛を使った運送網が敷かれ、大名行列のみならず庶民までが旅をするようになり、やがて諸藩の文物が江戸に集められるようになった。江戸は全国各地の人々が集まる一大人口集積地となり諸国の文化や風習が混ざり合うようになった。また江戸からは流行りの風俗や洗練された文化が諸国に伝播(でんぱ)していった。例えば歌舞伎は江戸で発祥したが、それらは諸国に広まっていき現在でも地歌舞伎として伝統芸能として継承されている。

食文化もしかりで、諸国の名産や名物、調理方法などは街道を通じて江戸に集められたのだ。例えば醤油は紀州で作られ、海路陸路を通じて江戸に運ばれるようになった。海に囲まれた日本は海産物が豊富。おのずとさまざまな魚介が運ばれ、同時に生ものを運ぶことになるため、保存方法も開発されるようになった。日本の寿司文化はこのようなことから発展してきたと言う。

このように旧街道と食は切っても切れない関係なのだ。

なれずし

鯖をはじめとした魚介類を新鮮に、かつ安全に届けるために「なれずし」や「ささ漬け」などの保存技術が生まれた

若狭の海の幸を京へ届けた交易の道

さてまず最初のロケは若狭と近江、そして京都にまたがる鯖街道に決まった。食と旧街道の取り合わせでは最も有名でないかと思う。

鯖街道、そのキャッチーな響きは、街道の成り立ちを簡単に想像させてくれる。この街道は日本海若狭の海から京へ海産物を運んだ道であり、実は複数存在する。若狭小浜から熊川宿を通り、近江の朽木、そして京都の大原を抜ける、もしくは今津から琵琶湖で大津を経て京へ向かう「若狭街道」、名田庄(なたのしょう)から丹羽山地、周山(しゅうざん)を越えて京見峠から京に入る「周山街道」などだ。

その中でも今回走るのは、京へ最も近い道ながら最も険しく、危険も多いと言われた「針畑越え」という道である。日本の原風景が広がる素晴らしい道だ。若狭の小浜には「京は遠ても十八里」という言葉が残されている。これは「京は遠くてもたった十八里(約70km)だよ」という意味で、江戸時代に若狭の浜で朝に水揚げされた魚介類を、塩で締めて山中を一昼夜かけて運び、翌朝には京に届けたという。人夫や馬借(ばしゃく)が背負子(しょいこ)いっぱいに詰めた魚を担ぎ、何度か荷継ぎをしながら山中を走り抜け、翌朝に京におわす高貴な人々の邸宅や市場に運んだ。険しい山中を重い荷物を背負いながらできる限り早く魚介を届けたのである。特に鯖は「生き腐れ」と言われているらしく、腐らないように塩につけ、できるだけ早く運んだという。その間にアミノ酸が生成され旨み成分となり、十八里を頑張って進み、京に届ける頃にはいい具合に味がなじんだのだというから面白い。

ところで鯖街道という名称は、実は最近になってからつけられた愛称である。言ってみれば「フラワー街道」とか「さざなみ街道」「秋田マタギロード」のような、よくある道路愛称や街道愛称なのであるが、言葉の響きがなぜだか古さを覚え、あたかも昔から使われていたような感覚だ。私の興味はあくまで明治以前の旧街道にあり、現代の規格道路につけられた「〜街道」にはまったく興味がないのだが、この鯖街道は複数の旧街道の総称となっていることや、道は古代から続く旧街道そのものなので、ここではあえて鯖街道と呼んでいきたい。

鯖街道へ出発

旅の出発点は、京都の出町柳(でまちやなぎ)。京都を流れる賀茂川と高野川の合流する出町橋のたもとに「鯖街道口」の石碑が建てられている。今回の出発点だ。まずこの出町という名称は、文字通り京の町を出る境目という意味らしい。旅立ちを実感させてくれる名前ではないか。

さて、まだ梅雨の明けきらぬ、七月初旬。湿気の多い蒸し暑い朝、令和のやじきたの二人は出町橋に集合した。
先に着いたシシャチョーが橋の欄干から賀茂川の流れを眺めている。
「ご無沙汰です!」と声を掛けるも何だか物憂げなシシャチョー。
「何でワシらいつもこんな暑い時期に旅を始めるんでしょうな……はははは」と自嘲気味に笑っている。
天気予報サイトでは現在の京都の気温は32℃。湿度は80%を越えている。
早朝というのにすでに体はだるさを覚えていた。
「とにかく宿泊地まで頑張ってうまいもん食いながらビール飲みましょう!」

どちらからともなくそんな励ましの声を掛け合い出町橋を出発した。

が、すでに汗まみれの令和のやじきたの二人だった。

出町橋にたたずむシシャチョー

久しぶりの旧街道じてんしゃ旅のロケ。出町橋にたたずむシシャチョー

出町橋を出発する

賀茂川にかかる出町橋を出発する

鯖街道口の道標

出町橋の袂にある現代の道標「鯖街道口」の文字

花背峠にやられる……

まず京の町中を北上していく。出町で町を後にするとは言え、現代の京都では北部はまだまだ都市部。自動車の往来も激しく、広い通りでは自転車を乗るのもままならない。しかし鯖街道(鞍馬寺まで行く街道として鞍馬街道と呼ばれていた)は、下鴨の集落の中をくねくねと縫うように走っていて、意外と早く郊外に出てしまえる。深泥池(みどろがいけ)を過ぎた集落に差し掛かる。斜度15%はあろうかと思える激坂が現れ、さらに汗をかいて上る二人。出発後まもないがたまらず近くのコンビニエンスストアに飛び込んだ。
「これはちょっと洒落になりまへんな!!こんなに蒸し暑いとは」
筆者もお茶を買って一気に飲み干してしまう。そのぐらい汗をかいてしまっていた。
「ここから明後日の小浜市に到着するまではほとんど商店も無いので、ここで食べ物と飲み物を買っていきましょう!」

下鴨神社

下鴨神社。鎮守の森の中の参道を押し歩き

鞍馬街道の激坂

深泥池の先の鞍馬街道の激坂

しばらく進むと川床で有名な貴船(きふね)神社を過ぎる。鞍馬川の清流が空気中の潜熱を奪ってくれているので、上っているとはいえ存外涼しく感じられた。

「おっ!電車や!」シシャチョーが叫ぶ。走行中の姿を撮ってあげようと先行して待ち構えていると、叡山(えいざん)電鉄鞍馬線の電車が単線の陸橋の上を走り過ぎていった。絶好のタイミングだった。

叡山電鉄鞍馬線の陸橋の下を行く

叡山電鉄鞍馬線の陸橋の下を行く

天狗で有名な鞍馬寺に到着。叡山電鉄鞍馬駅のモニュメントの前で記念撮影をした。赤い顔と長い鼻で有名な鞍馬の天狗だが、実はこの鯖街道沿い、そして若狭には天狗に関する神社や祭り、物語が複数点在している。神とも妖怪とも言われる天狗だが、実は日本海側からやってきた外国人だったという説もあり、京からみれば洛外にいる異形の人物だったのかもしれない。そんな話に思いを馳せながら、今日の最難関である花背峠に向かった。

雰囲気のある古民家

雰囲気のある古民家が目につくようになってきた

叡山電鉄鞍馬駅

叡山電鉄鞍馬駅に到着。大きな天狗が顔を見せた

天狗とシシャチョー

天狗とシシャチョー。天狗のつもりだろうか?

街道はいよいよ人寂しい山中へと分け入っていく。つづら折りの厳しい峠道。時折バスが往来することもある幹線道路でもあるのだが、いかんせん狭いうえに急峻だ。この峠は京都のサイクリストの格好のトレーニングコースになっている。我々もロードバイクでの軽装で走るのであれば良いのだが、取材のための機材や仕事のパソコンなどを積み込んで走っているので重い。それに二日分の食料と飲み水も満載だ。着替えなどは夏場なので軽量なのだけれど十分に重い。筆者もこの春に10kgの減量を果たしたのだが、それでも息が切れ、汗が滝のように滴り落ちた。コンビニエンスストアで買ったボトルを一気に飲み干してしまう。

「まあ取材ですし荷物もあるし、一気に上るんじゃなくて雰囲気を楽しみながら上りましょう!」と筆者。何度も休憩をしながらようやく峠を越えた。

花背峠を目指す急峻な上り

花背峠を目指す急峻な上り

眼下に京の街

小休憩、眼下に京の街を見下ろせる

花背峠

やっと着いた花背峠。荷物満載で真夏に上るのは辛い

久多の集落へ

花背峠を下り切るとあたりはトタンで囲まれた茅葺き屋根の家がならぶ山里の風景に変わる。清流沿いに走りやすい道が続く。花背峠の厳しさが嘘のように快適に走っていける。川沿いということもあって涼しさが感じられ旅気分が大いに盛り上がった。

食事場所が無いと想定していたため、食料を積み込んできたが、幸いにもお弁当を売っているところがあったので唐揚げ弁当を食べた。毎週火曜日だけ営業しているとのことだったので、読者の方はやはり食料は備えていったほうが良いだろう。

いくつかの山村を過ぎる。どの集落にも茅葺き屋根の住宅が残されていてとても雰囲気が良い。杉の植林の中を旧街道は曲がりくねりながら次第に斜度が増してきた。いよいよ本日最後の難所、能見峠だ。距離はさほど長くないがとにかく斜度がきつい。

一日中汗をかき続けているためか、シシャチョーもきつそうだ。
「我々は旅人サイクリスト。気合いと根性だけで走るもんやない!歩きましょ!」と二人して歩いて越えることにした。

昔話のような山里

花背峠を下ると昔話のような山里になる

Aコープだった建物

元はAコープだった建物(火曜日のみ営業)でお弁当を購入

茅葺屋根が現存する集落

茅葺屋根が現存する集落を通り過ぎる

杉の植林の中を気持ちよくライド

杉の植林の中を気持ちよくライド

久多の集落を望む

能見峠の近くで。今日の投宿先の久多の集落を望む

峠を下り切ったところが今日の投宿地、久多(くた)の集落。随分と遠いところにきた感じがするが、ここはまだ京都。周囲を山に囲まれたまさに隠れ里といった趣の集落で、数軒の茅葺屋根の家が建っている。実は本来の鯖街道の道筋は、京から出発すると、花背峠の脇から山中に分け入り、四里(約20kmほど)を山道を進み、八丁平と呼ばれている湿原を通りながら久多に達する道である。一度トレッキングで歩いたことがあるが、なかなかに長い道のりである。しかしまさに旧街道を進んでいるという実感があり、久多の集落が見えた時は心から安堵した記憶がある。

今日の宿は、茅葺き屋根の古民家宿。日が没する前に投宿することができた。
宿に着くなり風呂に入る前にビールを頼み一気に喉に流し込む。最高の瞬間。
そのあとは宿の女将さんの地元の話を聞きながら夕餉(ゆうげ)をいただいた。鮎や山菜、平飼いの地鶏にジビエまでが食膳にならんだ。みなこの辺りで採れたものがほとんどだという。心地よい夜。久しぶりの旧街道旅に宿の女将さんも交えて話が弾む。気がつけば宿の焼酎をすべて飲み尽くしてしまっていた。
夜も更けてようやく布団を敷いた。シシャチョーはいち早く寝息を立てている。静まり返ったなかに、虫の音と隣の川の流れが心地よい。夏だというのに網戸もなく戸板を全開で床に着いた。不思議と蚊は居なかった。

久多の集落

久多の集落に入った。田んぼと茅葺屋根が美しい

久乃屋

久多の古民家宿「久乃屋」(京都市左京区久多下の町229/TEL:075-748-2152)

 

ジビエ 鮎

山菜

鮎や山菜、ジビエ料理と鯖街道沿いの食材に舌鼓を打つ

参考文献:
「近江・若狭と湖の道」藤井讓治著 吉川弘文館
「食の街道を行く」向笠千恵子著 平凡社
「歴史と古道 歩いて学ぶ中世史」戸田芳実著 人文書院
「古代の朱」松田壽男著 ちくま学芸文庫
「新装版 今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州」今井金吾著 JTB出版事務局
「新装版 今昔東海道独案内 東海道」今井金吾著 JTB出版事務局
「新装版 今昔中山道独案内 中山道」今井金吾著 JTB出版事務局
「地名用語語源辞典」東京堂出版
「現代訳 旅行用心集」八隅盧菴著 桜井正信訳 八坂書房
「宿場と飯盛女」宇佐美ミサ子著 岡成社
「北国街道を歩く」岸本豊著 信濃毎日新聞社
「歩く江戸の旅人たち」谷釜尋徳著 晃洋書房
「道路の日本史」武部健一著 中公新書
「フォッサマグナ」藤岡換太郎著 講談社
「図解気象入門」古川武彦・大木勇人著 講談社