海外自転車メディアに掲載された市川雅敏氏インタビューの日本語版を紹介
このほど海外自転車メディア「PEZ CYCLING NEWS」に、1987年に日本で初めて欧州プロチームと契約した市川雅敏氏のインタビューが掲載された。ジャーナリストのエド・フッド氏とともにインタビュアーを務めたピークス・コーチング・グループの中田尚志氏が日本語版を紹介する。
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80-90年代。欧州のプロトンにオーストラリア人、イギリス人、アメリカ人が少しずつ現れ出した時代。まだ日本人は欧州のプロトンにほとんどいなかったし、グランツールにおいては皆無だった。
そんな時代に市川雅敏は現れ、1990年のジロ・デ・イタリアを日本人として初めてフィニッシュした。
ツール・ド・フランスを初めて完走した日本人は2009年の別府史之と新城幸也。しかしグランツールの完走は30年近くも前に達成されていた。
1990年、市川雅敏はフランク・トーヨーに所属し“バラ色のレース”を50位で完走した。彼の話を聞いてみよう。
PEZ:自転車にはどういったきっかけで出合いましたか? 競輪への道を考えたことはありますか?
市川:私が16歳のとき、近所にサイクルショップができたのです。早稲田大学の自転車競技部出身の根本兄弟が経営する店でした。彼らが結成したノロッサ・サイクリングクラブから私の冒険は始まりました。
ある日、クラブのメンバーが私にフランスの自転車誌ミロワール・ド・シクリスムを見せてくれたのです。そのとき初めて欧州のレースを目にしたのです。今でも美しい風景を通り抜けるプロトンの写真が目に浮かびます―――「ヨーロッパでプロになりたい」少年の夢が始まった瞬間でもありました。
身のまわりには沢山の競輪選手の友人がいます。でも私自身は競輪選手になろうとしたこともなろうと思ったこともありません。日本でプロになるには競輪学校を卒業する必要があります。同じ自転車競技ですがプロロードへの道と競輪への道はライセンスの取り方からして違うのです。
PEZ:自身をどのようなライダーだったと思いますか?
当時はちょっと変わった面白い存在だったのではと思います。サムライの国から来た冒険者といったところでしょうか。
ライダーとしてのタイプは強いクライマーでしたが、小集団のスプリントにも力を発揮することができました。日本でトラック中距離種目の経験があったからです。
PEZ:1983年と84年はどういったきっかけでスイスに来たのですか?
う〜ん。そこに至るには長い伏線がありました。83年の大学卒業後に同じくプロを目指していた鉄沢孝一(現アラヤ工業)とミラノに向かいました。それからコルナゴとロッシンの工房にほど近いジェッサーテという町に滞在しました。過去にロッシンで働いたことがある人が居たので、彼を通してロッシンを頼ったのです。
しかし実際にはロッシンはこれといってレース活動を始める手助けは何もしてくれませんでした。そのためにプランの変更を余儀なくされました。でもそのときの我々にはイタリアのサイクリングクラブとのコネもなければ連盟との関係もありません。もう途方に暮れてしまいました。
そんなある日、コルナゴ本社の1階にあるメカニックルームをたずねてみました。でもイタリア語は当時話せませんでしたから、どうすることもできません。そこでミラノにある日本企業の支店にお願いして「僕らをクラブに加入させてレースに連れて行ってもらえませんか?」と紙に書いてもらい、その紙を持って押しかけました。
そこでメカニックとして働いていたエルネスト・コルナゴの弟のパオロさんにその紙を見せたのです。我々は1日3回もコルナゴを訪ねて何か機会を得られないかと懇願しました。僕らは必死でしたが、彼にとっては仕事を邪魔する迷惑な奴らだったに違いありません。
きっとすごく真剣な奴か頭がおかしい奴に見えたことでしょう!
ある日、ミラノの東の外れにあるカルガーテという町のクラブの会長を務めるジョバンニさんがコルナゴを訪れました。彼は我々のクラブ加入を認めてくれました。ついにレース出場がかなったのです! そんなこんなで初めてレースに出るまでに1か月も掛かってしまいましたが、そのおかげでカルガーテの皆さんとは今でも連絡を取り合う仲です。
カルガーテの属するカテゴリーでは我々はなかなかうまくやったと思います。でも自分はプロになりたかったのでスイスに拠点を変えることにしました。83年はスイスのアルテンラインで世界選手権が開催されることを知っていたので、激しいレースがあるのではと思ったのです。
そこではプロとアマの違いをまざまざと見せつけられました。スイスではオープンレースと呼ばれるアマとプロが混走するレースがあるのですが、我々アマチュアがハンディキャップをもらって先にスタートするにも関わらず、プロの集団はレース前半に追いついてしまうどころか素通りしてしまうことさえありました。
当時スイスのプロはチロ・アウフィーナの全盛期でベアット・ブロイ、エリック・メヒラー、セルジュ・デミエールといった強豪ぞろいでした。
(スイス・オープンレースのシステム:アマチュアはプロに1kmにつき1秒早くスタートできる。例えばレースが100kmなら100秒先行。上限は150秒)
83年の冬に帰国したときにはすっかり打ちひしがれてプロになる夢は消えていました。しかし知人の1人が私に再度スイス行きを勧めスポンサーを申し出てくれたのです。そこで翌年は他の2人の日本人とともに彼の奥さんの名前を冠したチーム・ミチホというプライベートチームを結成して再度スイスに渡ることとなったのです。
PEZ:85年はスギノに所属していたとのことですが、どこで走っていたのですか?
ええ、スギノにいました。スギノは85年の6月まで大阪に本社があり7月に奈良に移転しました。それに合わせて私も奈良に居を移しスギノで働きつつレースも走っていたのです。
PEZ:86年にスイスへ戻ってマビックチームに加入された経緯を教えて下さい。
これは幸運のたまものでした。84年にヒルクライムレースなどである程度の成績を収めていました。当時、後にチームメートとなるスティーブン・ホッジとも知り合っていましたし、ホッジが一緒に住んでいたウィリー・フェリックスとも知り合いでした。彼らがチームオーナーのジョン・ジャック・ループに掛け合い86年マビック・ジタンに入れるように手はずを整えてくれたのです。
85年5月のある日、スギノの同僚がスイス最大手のショップ、ゲルバーからのテレックスを私に持ってきました。そこには“日本にいるマサトシ・イチカワに伝えてほしい。我々は彼のためのスポットを確保している。もし興味があったら来年来ないか?”と書いてあったのです。
PEZ:あなたはスティーブン・ホッジとチームメートだったのですか?
はい。86年にマビック・ジタンのアマチュアチームで一緒になりました。我々は10年近く同じアパートに住んでいましたが、それが彼と同じチームに所属した唯一の年になりました。
極東の国から来たライダーにとって、どのような道筋をたどりどのように過ごすか? を示唆してくれる人が必要です。彼は欧州でそれを教えてくれる存在でした。
彼はレースのやり方だけでなくヨーロッパの人々のマインドや考え方も教えてくれました。彼は大学で日本語を学んだことがあり日本人のマインドを理解していたのも幸運でした。
今でもはっきりと言えます。もしスティーブン・ホッジの手ほどきがなければ、私はプロにはなれなかったと。
PEZ:元プロでありコーチでもあるダニエル・ギジガーがあなたのキャリアに与えた影響を教えて下さい。
彼に会うのは運命だったのかもしれません。彼は私のキャリアの中で最高の先生であったと言えるでしょう。彼は私にコンディションの作り方やキープの仕方を教えてくれました。どうやってピークに持っていくのか? ハートレートモニターをどう活用するのか? ということをはじめ本当に多くを彼から学びました。
今振り返ってみても1980年代以前に彼が既に今でも通用するトレーニング・メソッドを確立していたことに驚きを覚えます。
彼に実際に会うまでに彼の名前も顔も知っていました。私が21歳の頃、シマノがエアロのグループセット、デュラAXを発表しました。AXのカタログの表紙にはギジガーが使われていたのです。
PEZ:ヒタチ・マーク・ロッシンとはどうやって契約したのですか?
86年にスイスのマビック・ジタンに所属し、そこでいくつかの好成績を挙げていました。ビスカイアのツアーで第1ステージを優勝しリーダージャージをキープしましたし、オースト・シュバィツ・ランドフルトでは総合2位に入りました。これらの成績を持ってホッジとともに87年はKASと契約することになりました。
しかし87年の1月にフランス人のKAS監督ジョン・ディグリバルディーが自動車事故で亡くなってしまったのです。そのためにKASはフランス国籍からスペイン国籍のチームへと登録を変更することになりました。当時は登録国の選手が50%以上を占めなくてはならない規約があり、何人かのフランス人ライダーと私は契約を解除されてしまいました。そのアクシデントの後、フランス・マビックの人々は私のために代替のチームを探してくれました。ジョン・ジャック・ループはスイス・マビックの輸入元で彼らと強く結びついていたため、依頼してくれたのです。
彼らは2チームを見つけてくれました。ひとつはベルギー・ヒタチ、もうひとつはマルボロ・ボテッキアです。私はマビック・ジタンのDS(監督)のアドバイスに従いベルギー・ヒタチに行くことにしました。彼はこう言ったのです。「ヒタチには平坦系に強い選手が沢山いるけど、お前は上りに強いだろ? それならば山岳レースやステージレースのメンバーに起用される可能性が増えるしチャンスが増えるんじゃないか?」
PEZ:世界選代表にも何度も選ばれていますよね。それについて教えて下さい。
はい。都合10回世界選に出場しています。自分にとってはすごくシンプルなレースでした。好きなように走って良いからです。フランスやイタリアの選手のようには集団の前に出てコントロールに入る必要はないですからね。もちろん常にハードなレースですが気楽でもありました―――レースをフォローするだけで良いですから。世界選は大好きなレースでした。シャンベリーでは下りで2回も落車してしまって大きなチャンスを逃してしまいました。
PEZ:スイスで2勝を挙げたにもかかわらずヒタチは契約更新しなかったのですか?
89年の始めにはヒタチは解散することを聞かされていました。日本の友人から90年には日立が日本で野球チームを設立するということも聞いていました。その年はジロに選ばれていましたが土壇場になってベルギー人に変えられてしまいました。解散するのでチームは自国の選手にチャンスを与えたのです。私は成績を出さねばならないと思ったとともにこう理解したのです。「外国人選手として大きなレースに起用されるには常にホームカントリーの選手よりも強くなくてはいけない」と。
その後、リヒテンシュタインでのシュレーンベルグで勝ち2チームからオファーをもらいました。シャンベリーでの世界選を終えた後、すぐに私はフランク・トーヨーに移籍しイタリアでシーズン終盤の数レースを走りました。
PEZ:フランク・トーヨーには89年終盤と90年に所属したのですか?
はい。小さいですが最高なチームでした。ギジガーが良い指揮を執っていましたし、良いチームメートとスタッフにも恵まれました。たった1年しかいられなかったのは残念でなりません。彼らとジロを走るのは楽しかったです。イタリア人ライダーにとってそうであるように私が出場した一番大きなステージレースでした。美しい山々を走りましたし毎晩おいしいディナーを楽しめました!
しかし、ドロミテでの山岳ステージ2日目に悪夢のような日を過ごしました。クイーンステージでもあったその日にステージ勝者のシャーリー・モテから30分も遅れてしまったのです。そのステージはポルドイ峠を2度上るステージでした。前日お腹を壊してしまい足にまったくエネルギーがありませんでした。ギジガーは私にポケットの中身を全部捨ててボトル1本で走れと指示しました。自分は体重は52kgしかありませんでしたから余分な荷物を捨てる作戦は効きました。さらにカルガーテの人々がポルドイ峠に応援に来てくれていたのです。これらのおかげで私はステージを越えることができました。彼らの助けや励ましがなかったら私はステージをフィニッシュしてなかったかもしれないですね。
ジロは総合50位で終えましたが、もしクイーンステージのあの日何もなければモテから10分程度の遅れで済んだと思います。そうすれば総合30位から40位ぐらいには入っていたと思います。
実は90年には選手を辞めることを考えていました。その年宇都宮で世界選がありました。ジロを30-40位でフィニッシュし、世界選でも良いリザルトが出ればもう十分だと思ったのです。しかし、プランどおりに物事は進まず私は翌年以降も欧州に挑戦することにしたのです。
PEZ:91-92年はスイスのブライカーに所属し3勝を挙げた。良いシーズンだったのではないですか?
そうですね。ベアット・ブロイ、ウルス・フロイラー、サンドロ・ビターリなど良い選手がいるチームでもありました。91年、私はジロ・デ・トスカーナを総合14位で終えジロ直前にチームを移籍することも考えましたが実現せずアメリカ遠征に行くことになりました。バージニア州でのステージレースやフィラルデルフィアのコア・ステーツUSプロ選手権(注:市川はそこで8位に入っている)などを走りました。良い経験になりましたね。プロ入り直前のランス・アームストロングもいました。バージニアの大きな大学にステイしたのも楽しかったです。フィラデルフィア・クラシックをはじめアメリカでの多くのレースや欧州での幾つかのプロレースがなくなってしまったのは残念に思います。
PEZ:93年はイタリアのナビガーレ・ブルーストームに所属されていました。
シーズン初めに大きな落車をしてしまい、大変な手術を受けました。顔にチタンのボルトとワイヤを埋め込んだのです。1か月病院で過ごしました。93年の終わりには日本に戻っていました。自分のプロとしてのキャリアはヨーロッパを離れた時点で終わりました。
帰国後、東京でフルタイムの仕事に就きました。日本でもまだレース活動はしていましたが、完全に趣味でしたね。マビックのジャージを着て走っていました。たった10レース程度しかなかったですし、週末にしかバイクに乗っていませんでした(注:TOJ総合3位に入るなど社会人レーサー離れした成績を出していたのでインタビュアーは帰国後もプロで走っていたと勘違いしていた)。
PEZ:キャリアを終えた後、どんな道に進んだのですか?
93年に東京に戻った後、父親が経営する浄水器の会社に勤めました。父親の死後は自転車のパーツやフレームの輸入を始めました。アメリカからセロッタを20年にわたり輸入しています。ベン・セロッタとは今でもとても仲良くしています。今はクロモリやチタンのカスタムフレームの工房を経営しています。“Masa Masa”という名前を冠しています。将来的には輸出もしたいですね。
PEZ:キャリアの中で一番満たされた瞬間はどんなパフォーマンスを出したときでしたか?
自分にとっては良いリザルトを残したときよりもうまく走れた瞬間を誇りに思っています。良い脚があったにもかかわらずうまくいかなかったときの方がかえって強く印象に残っていますね。シャンベリーでの世界選手権やクラシカ・サンセバスチャンでは結果は伴いませんでしたが本当に良い脚をもって臨みました。
シューレンベルグでの勝利も良いものでしたね。ヤン・コバやヘラール・フェルスコッテンは決まった逃げの中で私よりずっと良いスプリンターでしたが、彼らがお互いに牽制している隙を突いて仕留めました。自分より強いスプリンターをスプリントで打ち負かすのは自転車競技の醍醐味と言えるでしょう!
PEZ:キャリアを振り返ってみて、もう1度やり直せるとしたら?
自身のキャリアにまったく後悔はありません。生まれ変わってもまた欧州でプロになりたいですし、また同じ道でプロになりたいと思います。一時期、私はマルボロ・ボッテキアに行くべきだったのではないかと考えたこともありました。でも、もしもベルギー・ヒタチに行かなかったら北のクラシックやアルデンヌ・クラシックを知ることもなかったし、ベルギーでジョン・ルック・バンデンブルックをはじめとするすばらしい人々に出会うこともなかったでしょう。
ですから私の欧州でのキャリアは全て良い経験だったと言い切ることができます。
一つだけあるとしたら……もう少し若い時期から行った方が良かったかもしれないですね。
インタビュアー
エド・フッド(Ed Hood)
グランツールから6日間レース、シクロクロスまでをカバーするイギリスのバイクジャーナリスト。自身もスコットランドチャンピオンに輝いたことがある元レーサー。現在はPEZサイクリングニュースをはじめ複数のメディアに執筆する。
中田尚志
ピークス・コーチング・グループ・ジャパン代表。パワートレーニングを主とした自転車競技専門のコーチ。2014年に渡米しハンター・アレンの元でパワートレーニングを学ぶ。サイクルスポーツ7月号「強いヒルクライマーになるためのすべて」に登場。