旧街道じてんしゃ旅 旧中山道編 四日目その壱 下諏訪宿(長野県)〜奈良井宿(長野県)
目次
サイクルショップ(ストラーダバイシクルズ)とツアーイベント会社(ライダス)の経営者(井上 寿。通称“テンチョー”)と自転車メディア・サイクルスポーツの責任者(八重洲出版・迫田賢一。通称“シシャチョー”)の男2人、“令和のやじきた”が旧街道を自転車で巡る旅企画の第二弾「旧中山道編」。4日目は前日の大雨が嘘のような快晴。旧中山道のハイライトである木曽路に入る。
前日の鬱憤を晴らすがごとく全力で上った塩尻峠
昨日の大雨が嘘のような快晴の朝を迎えた。昨日は体調不良で満足に走れなかったこともあり、気分の方はあまりさえない。とは言うものの今日から旧中山道のハイライトである木曽路に入る。気持ちを切り替えて行こう。昨日の罪滅ぼしのつもりで、シシャチョーの自転車をメンテし宿を出発した。
下諏訪宿は古事記の舞台である諏訪湖畔にある。有名な諏訪大社が祭られており、古代から信仰の地であった。そして交通の要所ということもあり、今も昔もたくさんの人が集まる。早速二人して旅の祈願のために諏訪大社に参拝。昨日、シシャチョーには迷惑を掛けてしまっているので、私は今日からは体調が戻るように祈願した。
さてこの下諏訪宿は旧中山道と旧甲州道中の分岐点、つまりは追分(おいわけ)がある。今日はこのモニュメントからの出発となった。
しばらく幹線道路の脇を西に向かって走る。次第に高度が増してくる。いよいよ塩尻峠に差しかかる。この峠は距離はたいしたことはないが、突然勾配が増すうえに、自動車の往来もあって、立ち往生してしまったりする。今も昔も難所に数えられる峠だ。
前回走ったときは、友人のバイクショップオーナーが帯同してくれたので元気良く走ることができたのだが、今回はコロナ自粛の影響で体が満足に動かない。かなり心配しながら登坂を開始した。
途中「旧中山道の大石」と名付けられた大きな岩の前を行く。この下には昔、峠で山賊に襲われた人たちが祭られているという。当時の峠ではこうした山賊や、ならず者がよく出没したそうだ。今でも峠道にはたくさんの石仏が祭られているが、そうしたものの中には少なからず旅の途中で計らずも命を落としてしまった人々を祭ったものがあると言うことだ。何だか薄気味悪くなってきたので急いで再出発する。
ほどなくして街道歩きの女性に呼び止められる。何でも毎週この峠を歩いているそうで、コロナのせいで出会う人がめっきり減ったということだ。長年歩いているけどこんなことは初めてで、いつも峠で会う人に会えないのが寂しいと言っていたのが印象に残っている。早く平穏になってほしいものだ。
ウォーキングの女性と別れ、シシャチョーの写真を取るべく、先行して自転車を押し歩きしているときだった。いかにもクライマー体形のサイクリストが我々の横をダンシングで走り抜けていった。追い抜きざま、我々にいちべつをくれてニヤリとしたように見えた。
その瞬間、シシャチョーにスイッチが入った。愛車、キャノンデール・キャード13に飛び乗ったかと思うとカメラを構えている私の横を猛然とかすめていく。サイクリストとしての火が入ったようにダンシングしていくシシャチョー。当然荷物満載の身では追いつくことも頂上まで走り通すこともできなかったが、慌てて追いかけて峠にたどり着いたときには、ヘロヘロになっていたが充足感たっぷりのシシャチョーが座り込んでいた。
アラフィフだって頑張れるんだぜ! そんな青春ごっこを楽しんだ後に、峠の展望台から見た諏訪湖は格別の景色だった。
いよいよ旧中山道のハイライト「木曽路」へ
塩尻峠を下って塩尻宿、洗馬宿(せばじゅく)と過ぎる。途中に一里塚や道祖神などたくさんの街道の文物が残っているが、ここへ来るまでにかなり見てきているので慣れてしまった感がある。一つ一つは由緒正しくしっかりと見るべきものなのだろうが、ここ木曽路に入った途端、それが道端に当たり前のように存在するようになる。
旧中山道は碓氷峠に入るまで、往時を感じさせるものは何もないと不平を言っていたのだが、木曽路に入った瞬間に当たり前に感じるとは、何ともぜいたくな話ではないか。
そば切り発祥の里 本山宿でそばをすする
本山宿(もとやまじゅく)に入って昼食を取る。ここはそばが名物。今も人気のそば屋があるということで、道端の看板を見つけ吸い込まれるように店に入った。
コロナ禍であるというのにたくさんの人が来ていて並んで待っている。店員も大忙しのようで、挨拶もままならない状態だ。待ち時間を使って周りの道を探索する。この周辺は例のお椀をかぶせたような山々が手の届くほどの近さで迫っており、都会とは明らかに趣を異にする風景だ。私は生粋の田舎者だが、都会育ちのシシャチョーにとってはなかなか見られない風景だったように思う。そして個人で街道の勉強をしているだけあって「あの山がいい」「この雰囲気がすばらしい」と多々言うようになっている。旧街道サイクリングはまさに“エデュケーショナルツーリズム”の極致だと思う。
さてそうしているうちに順番がやってきた。そばはさすがの味。江戸時代もそばは人気だったようで、旅人もここでこぞってそばをすすったに違いない。
本山宿を過ぎて国道19号線と並行しながら走る。国道沿いは路面も荒れていてトラックがひっきりなしに往来している。怖いので歩道を走るが、シシャチョーとの会話もままならないぐらいトラックの騒音がひどい。小さな一里塚跡を過ぎてようやく山側に退避する形となった。木曽路はハイライト。趣深い土地だが、狭隘(きょうあい)な山を行く以上はどうしても他の交通とせめぎ合う形になってしまう。残念だが仕方ない……。
旅籠(はたご)初体験のシシャチョー
贄川宿(にえかわじゅく)で関所を見学し街道の名残りが色濃く残る間宿の楢川(ならかわ)を経て、今日の投宿地である奈良井宿(ならいじゅく)に到着した。
宿場の入り口でシシャチョーはすでに感動している。ここ奈良井宿は、江戸時代も難所と言われた鳥居峠を目前にして、大変栄えた宿場だった。現代もそのたたずまいを残すために町をあげて宿場町の保全に努めている。電線の地中化や景観の規制で、往時の宿場町をしのばせるたたずまいがきれいに残されている。袖うだつ(防火や装飾を目的とする、屋根と壁とが一体化したような構造。“うだつが上がる”の語源にもなっている)のある古民家がずっと軒を連ねていて、それぞれ長い歴史を持っている。軒下に馬をつないでいた「馬つなぎの環」が残っていたり、江戸方面か京方面かが一目で分かる下げ看板が残されていたりする。それ以外にも昭和の商店街の趣も残っており、古びたカプセルトイの通称「ガチャガチャ」が古いまま残されていたり、江戸から昭和中期までの原風景を感じることができる。
昨年、国土交通省の仕事でここを訪れたときは、インバウンドの訪日外国人旅行者であふれかえっていた。しかしコロナ禍のせいで、今は日本人も含め観光客はまばら。
こんなことを書くと大変不謹慎だし、ここで生活している人からすると死活問題なので書くべきではないのだろうが、今回見たこの風景は、まさに「情景」と言えるものだった。西の妻籠宿(つまごしゅく)が伝統的建築物保存地区の先駆けで、現在も美観保全の面では抜きんでる。それに比べるとふだんは少し消費関連の趣が強いと感じる奈良井宿だが、喧騒もなく、静かでしっとりとした雰囲気を見ると、これがこの宿の本来のすばらしさだと思った。これはあくまで旧街道を愛する一人のサイクリストのざれ言とお聞き流しいただきたい。
さて今日の宿は、奈良井宿の中でも老舗の宿。江戸時代は脇本陣(わきほんじん)をしていたという由緒正しい宿だ。昨日が疲労困ぱいだったこともあり、今日は日もまだ高いうちに投宿することにした。宿は若い夫婦が切り盛りしており、取材で自転車で来たと言うと、街道の往来を見下ろせる最高の部屋をあてがってもらい、大満足でハイボールの缶を空けた二人だった。
今回の行程:下諏訪~(二里三十二町)~塩尻~(一里三十町)~洗馬~(三十町)~本山~(二里)~贄川~(一里三十一町)~奈良井 約36.8km
※一里=三十六町、約3.9km
一町=六十間、約109m
一間=約180cm
参考文献:
「新装版 今昔中山道独案内」今井金吾著 JTB出版社
「歌川広重・渓斎英泉 木曽海道六拾九次之内」中山道広重美術館
「旅行用心集」八岡蘆庵著 八坂書房
「宿場町と飯盛女」宇佐美ミサ子 岡成社