海外自転車メディアに掲載された三船雅彦氏インタビューの日本語版を紹介
海外自転車メディア「PEZ CYCLING NEWS」に、ベルギーを中心に活動した三船雅彦氏のインタビューが掲載された。ジャーナリストのエド・フッド氏とともにインタビュアーを務めたピークス・コーチング・グループの中田尚志氏が日本語版を紹介する。
石畳と狭い道路、そして悪天候で知られるベルギー・オランダを中心に15年近くプロ生活を送った三船雅彦。
カヴェンディッシュ、フルーム、ガビリア、トーマスといった英語圏の選手を中心にベルギーで選手の受け入れを行い、現在はバーレーン・マクラーレンのDSを務めるティム・ハリスが立ち上げたのがFSマエストロ。そこで走ったのが日出ずる国から来た男、三船雅彦だ。
PEZ:サイクリングの世界に入ったキッカケを教えて下さい。
三船:少年時代は野球と水泳をしていました。ある日、TVでツール・ド・フランスを観たのです。それから近所で「ツールごっこ」をするようになりました。その後、本格的に競技に取り組むために京都の花園高校に入学しました。
PEZ:ジュニア時代にヨーロッパで走っていたのですか?
三船:はい。本場ヨーロッパのレースを経験するために高校卒業直後に渡欧しました。今でもスキポール空港に到着したときの鼻を突くような冷気を吸い込んだ感覚を覚えています。「随分遠くに来たな」と異国情緒を感じたものです。
欧州でジュニアカテゴリーを経験できたのは貴重でした。早生まれだったので高校卒業後もジュニアで走れたのです。私はここから多くを学びました。
オランダのジュニアは日本とは別世界でした。ジュニアと言えば世界選手権でアルカンシェルが与えられる最初のカテゴリーです。彼らはプロになるために厳しいトレーニングに励み、節制した生活を送っていました。ここはもはや「ごっこ」の世界ではないことを早い段階で理解することができました。
PEZ:パナソニック・パナレーサーについて教えて下さい。
三船:エリート最初の年、ジュニアとのレベルの違いに戸惑い少し嫌気が差してオランダから帰国しました。
帰国後、日本ではスギノ(自転車パーツメーカー)が物心両面にわたり活動をサポートしてくれました。そこで欧州でプロを目指すというよりは、日本をベースにスギノでサポートしてもらいながら全日本選手権のために欧州遠征に行くことを考え始めました。
移り気な若い選手にとって易きに流れることはたやすいものです。日本にいたあの頃の私は100%サイクリングに情熱を注ぎ込んでいなかったと思います。トレーニングしながらお金をもらって暮らして行けることに満足していたのです。
しかしそんななかでも、再度ヨーロッパ遠征に行ったときに不思議と前回よりも良い成績が取れました。ほとんどのレースでトップ10に入ったのです。
ある日、元パナソニックチーム(当時のワールド・ツアーチーム)のメカニックに自転車を預けに行った時に彼はこう言ったのです。「お前は前回に見たときより強くなっているな。今の実力ならプロになれるんじゃないか?」
その言葉は衝撃的で、私の目を覚ましてくれました。
“そうだ自分はヨーロッパでプロになるために自転車競技をやってきたのだ。日本で好成績を挙げるためにヨーロッパ遠征するべきじゃない”
翌年、他のチームで走る選択肢もありましたが、パナソニックとパナレーサーという企業にサポートしてもらいながら個人プロとして活動することを決めました。
PEZ:欧州での最初のレースについて教えて下さい。
三船:先述のように最初はジュニアでした。初レースで9位に入りましたが、あれはちょっとビギナーズ・ラックのようなものでしたね。その後は消極的なレースが続き、しばらくトップ10に入れませんでした。
そして、エリートに上がったときも同じようなことが起こりました。レベルアップに慣れる時間が必要だったのです。私は一歩一歩段階を経て走れるようになっていきました。ジュニアからエリートそしてプロへとステップアップできたのは幸運でした。
ヨーロッパ圏以外から来たライダーは、いきなり高いカテゴリーでレースを始め過ぎてショックを受け、つまずき、時にはそれが原因でレースを止めてしまうことさえありますから。
PEZ:マエストロにはどうやって加入しましたか? またマエストロ時代はどのように過ごしましたか?
三船:パナソニック・パナレーサー時代はスタートラインにつくまでに必要なことは全て自分でこなしていました。レース出場のスポットがもらえないかオーガナイザーと電話交渉。ステージレースにミックスチームで出場可能かの交渉。ホテル予約、会場までの運転。全てです。それをトレーニングとレース活動をしながら行うのはちょっと大変過ぎました。でもそれは後のキャリアに役立つ良い経験となりました。
そんなとき、ティム・ハリス(現バーレーン・マクラーレン)がFSマエストロに来ないかと誘ってくれたのです。FSマエストロではHEWサイクラシックス、パリ〜ブリュッセルなどステータスの高いレースに沢山出ることができました。
チームはスタートマネーを稼ぐために、とにかく多くのレースにエントリーしようとしていました。ある月、チームは1カ月の間に22日間もレースに参加したことすらあります。日曜日にフランスのブルターニュで3日間のステージレースを終え、すぐにパリの渋滞を抜けてドイツに向かい、月曜日から別のレースのスタートラインに並ぶということもありました。
コスト節約のためにフォーミュラワン(欧州のエコノミーホテル)に泊まり、クラシック前夜の夕食がビッグマックなんていうこともありました。でもそれが良かったのではないかと思います。自分が強くなり大きなチームに行けば環境が変えられるという思いが強くなりましたから。
マエストロは私のハングリー精神を養ってくれたのです。それが後にプロとして生き抜くために必要な考え方の根幹になりました。
PEZ:97年にトニシュタイナーに加入し、レベルの高いレースでトップ10に入っていますね。続くランドバウ・クレディットでも良いレースプログラムを与えられていましたね。
三船:97年にトニシュタイナーに加入しました。その後チームは01年にランドバウ・クレディットへと名前を変えました。私は02年まで在籍しましたから6年間同じチームに在籍したことになります。
96年のシーズン中、マエストロはそのシーズン限りで解散するとのうわさが流れました。そこでチームを探すことにしました。いくつかのチームが興味を示してくれましたが、どこも私が日本企業のスポンサーを持ち込んでくれることを期待しました。
唯一トニシュタイナーだけがスポンサー絡みの話を抜きにして、私自身のリザルトに興味を持ってくれたのです。
当時、ルド・ディレクセンス(ツール・ド・フランス区間優勝)やポール・へレイガー(シクロクロス世界チャンピオン)がチームに在籍していましたね。
私はタフなコンディションでのレースが得意でした。寒く雨が降っている中で石畳を走るようなレースです。そのようなレースに多くエントリーするトニシュタイナーは私の特徴に合っていました。
PEZ:トニシュタイナー時代はどこに拠点を置いていましたか?
三船:ベルギーのコルトレイクです。ベルギーでは多くのプロレースがありましたから、移動やコストを考えてオランダから引っ越しました。
PEZ:2000年はシクロクロスのナショナル・チャンピオンに輝いていますね。日本ではシクロクロス(CX)は人気スポーツですか?
三船:当時、欧州でロードレースを年間100レースこなした後に日本でCXを走っていました。日本では人気スポーツではないですが、情熱的な人たちがシリーズ戦を地元で開催していました。
オランダではリシャール・グローネンダールのメカニックの家にステイしていましたし、チームメートにもCX参戦を勧められていました。そのため、日本でCXを始めたのです。
PEZ:2002年にベルギーの秋のクラシック、プテカペーレンで4位。すばらしい成績ですね。
三船:秋は調子が上がる季節でした。そのため、秋に調子を合わせていました。2001年は11位に入っていたので、このレースは自分に向いているとも思っていました。
2002年は最初から逃げに乗っていて、ラスト15kmでトム・ボーネン、セルバイス・クナーフェンなどの優勝候補たちが追いついてきました。そこにいる誰もが最終局面でのボーネンの動きに注目していました。
向かい風の中で皆、最初に動くのをためらっていました。そこで私はボーネンとブノワ・ジョワキムが一瞬見合ったのを見て、彼らの間を突いてアタックしました。ラスト500mでトップスピードに乗せればフィニッシュラインまで逃げ切れると考えたのです。
残念ながらそれは成功せずゲールト・オムループが優勝しました。
PEZ:03〜04年はどうしていたのですか? ミヤタスバルについても教えて下さい。ヨーロッパから帰国した後のアジアでのレース活動についても教えて下さい。
三船:2002年ごろからUCIは最低年俸のルールを厳格化していきました。特に欧州外の選手については高い報酬を払う必要が出てきました。そのため、トニシュタイナーは私との契約を更新してくれず家族と日本へ帰国しました。
03〜04年はミヤタに在籍し国内のレースに出場していました。ミヤタはUCI登録のチームではなかったので、国外ではマルコポーロ・サイクリングチームの一員として走っていました。
2004年に香港サイクルクラシックで優勝しました。これは香港をあげてのレースでデイビット・ミラーやブルーノ・リジー、ワン・カンポーなども走っていましたね。
PEZ:今はどういった事をされていますか?
三船:今でも自転車界と強い結びつきをもって仕事をしています。企業の製品開発援助、セミナーのゲストや講師、イベント主催などです。全てサイクリング関係の仕事です。
昨年からはシクロクロスの日本代表チームの監督にも任命されています。昨年のスイスでの世界選手権では古くからの友人に会うことができました。同窓会のようでしたね。
自分はやはり走ることが好きです。ブルベに参加していて、パリ〜ブレスト〜パリには3回出場しました。
PEZ:もし、もう一度やり直すとしたら?
三船:もしベルギーに行かなかったらプロにはなれなかったと思います。フランスやイタリア、日本ではそれは成し得なかったでしょう。
ですから、きっと同じ道を選んだでしょうね。先述のように私にはベルギーのレースコンディションが合っていました。地元ベルギーの選手でさえ嫌がるようなタフなコンディションを走ることをいとわないライダーでした。そんな中でレースするのが好きだったからです。
三船雅彦
欧州のロードレースをジュニアからワールド・ツアーレベルまで経験した数少ない選手。現役時代はハードなコンディションのレースを得意にし、ツール・ド・フランドル、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュにも参加。
日本体育協会公認コーチ
滋賀県守山市自転車観光大使(2018年)
福岡県直方市自転車アドバイザー(2018年)
ツアーオブジャパン京都ステージアンバサダー(2017年〜)
ニセコクラシックアンバサダー(2017年〜)
守山警察署サイクルポリス名誉隊⻑(2018年)
エディメルクスジャパンアンバサダー(2017年〜)
シクロクロス日本代表チーム監督(2019年)
インタビュアー
エド・フッド(Ed Hood)
グランツールから6日間レース、シクロクロスまでをカバーするイギリスのバイクジャーナリスト。自身もスコットランドチャンピオンに輝いたことがある元レーサー。現在はPEZサイクリングニュースをはじめ複数のメディアに執筆する。
中田尚志
ピークス・コーチング・グループ・ジャパン代表。パワートレーニングを主とした自転車競技専門のコーチ。2014年に渡米しハンター・アレンの元でパワートレーニングを学ぶ。サイクルスポーツ7月号「強いヒルクライマーになるためのすべて」に登場。