旧街道じてんしゃ旅 幕末・明治維新の道をゆく 龍馬脱藩の道編 二日目 津野町〜梼原町(高知県)
目次
サイクルショップ(ストラーダバイシクルズ)とツアーイベント会社(ライダス)の経営者(井上 寿。通称“テンチョー”)と自転車メディア・サイクルスポーツの責任者(八重洲出版・迫田賢一。通称“シシャチョー”)の男2人、“令和のやじきた”が旧街道を自転車で巡る旅企画。今回の旅は「幕末・明治維新の道をゆく」。土佐から大洲(おおず)まで、坂本龍馬脱藩の道をたどりながら明治維新の志士たちが通ったであろう道を走り、想いをはせる旅となるのか。二日目は津野町から伊予(愛媛県)との県境である韮が峠へと向かう。
憧れの地「梼原(ゆすはら)」へ
龍馬脱藩の道は今日からがハイライトだ。見どころもきっと多いはず。昨夜の宿の余韻もそこそこに、二人して荷造りし、相変わらず山深い道に向かってペダルを踏み出した。旅の二日目。例によって体が重い……。
龍馬脱藩の道の中心点であり、通過点でもある「梼原」は、筆者が司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んでからずっと憧れの地だった。学生時代に四国を自転車で一周したときは、険阻な山中を避け気味に走っていったため、この梼原には達していなかった。四国一周を終えたときに、梼原に行けなかったことが心残りだった。その後、社会人となり、全国を飛び回る仕事に就いた。この高知も毎月のように訪れていたが、ビジネスとして県庁所在地を中心に回るだけであり、相変わらず梼原に行くことは無かった。だから今回の取材が決まったとき、梼原に行けることをとてもうれしく思った。
さて、龍馬と沢村惣之丞は城下を抜け出して、まず梼原を目指した。ここで二人は土佐勤王党の志士、那須俊平・那須信吾親子と落ち合う。そして親子の案内で無事に脱藩に成功するのだった。城下を抜けて素知らぬ顔で早駆けしてきたであろう二人は、那須親子に出会って顔を見たときは心底安堵したに違いない。ここ梼原は土佐の外れであり、当時はおそらく辺境の地という感じであっただろう。土佐勤王党の仲間の志士が多く、逆に藩の中央の上士連中は少なかったらしい。関所や番所の警護なども彼ら勤王党の郷士が行っていたということで、関所や番所抜けするときには、二人の脱藩を見て見ぬふりをしたという。二人にとって梼原にたどり着けば脱藩は半ば成功したようなものだったのだろう。
明治維新は江戸を中心としてみると、薩摩、長州、土佐など外縁部の諸藩の動きがきっかけとなった。中央から距離的にも遠く、彼らにとっては中央からの疎外感もあったことだろう。そうした革命的な素地が外縁部には育ちやすかったのかもしれない。同様に梼原も高知城下から見ると外縁部にある。そこには藩の煮え切らない姿勢に対抗する土佐勤王党の志士が多く生まれた。江戸と外縁部の関係と同じ構図だ。まるで当時の日本の縮図のようである。
さてシシャチョー&テンチョー、令和の脱藩組は、投宿地のかわうそ自然公園を出発し、幹線道路をしばらく進む。昨日とは変わって今日は曇天。川からの湿気もあり、少しばかり汗ばむ。心なしか少しペダルが重い。10kmほど走って道は次第に山中に入っていった。例によって押し歩きが始まった。
「さっそく歩きや! シャレならん!」とシシャチョーが叫ぶ。
「あ、昨夜飲みすぎた〜!! 体が重い!」
「アンタは太り過ぎやねん! サイクリングガイドがデブってどうすんねん!! 酒ばっかり飲んでるしや!」
「うわ! 嫌なこと言いますなあ!! そっちこそふだんは『モテるためにはハイボールしか飲まへん!』って言いながら、昨夜はビールがうまい、ビールが最高! って……どの口が言ってるんですか??」
誰もいない山中に、ダミ声の関西弁のおっさん二人の笑い声が響き渡る。維新の血気盛んな志士たちとは大違いで、まったく内容の無い会話に我ながら呆れてしまう。維新の志士達を追体験するという名目はどこへやら……。
しばらくするうちに林を抜けた。
その途端、目の前に広大な茶畑が広がった。その中につづら折りに道が続いている。美しい! 思わず息を飲んだ。日本の原風景と言っていい素晴らしい情景だ。連続した畝(うね)が曇天のなかにも色鮮やかに見える。見ると遠くに山に張り付いたような集落が見える。この地方の独特の風景だ。いいものを見ることができた。普通にサイクリングで幹線道路を走っていたらここまでは来ることはないだろう。メーターの数字ばっかりを見て、この美しい風景は目に入っていないことだろう。
これがあるから旧街道じてんしゃ旅はやめられない。あまりに美しいのでしばらく休んでいくことにした。
志士たちの故郷
今日はこの旅で最も厳しい行程で、最大の難所「韮が峠」を越える予定だ。ここを超えれば伊予、つまり現代の愛媛県に入る。3日間で龍馬脱藩の道を終えるには、何としても今日中にこの峠を越えなければならない。ふだんは行けるところまで行ったら泊まるという、いきあたりばったりの旅なのだが、この辺りは宿も少なく、またコロナ禍でほとんどが営業を取りやめている状態だ。だから心配になって、この日も早い段階から愛媛県側に宿を予約していたのだった。できる限り早めに宿にも入りたい。そういう事情で「神在居(かんざいこ)の棚田」などの名所も一部飛ばしていかざるを得なかった。これも大人旅ということでご勘弁いただきたい。そんなことでトンネルを抜けるといよいよ梼原の町にはいった。
梼原の町は、周囲を山に囲まれた静かな町だった。辺りにはめぼしいランドマーク的なものもなく、晴れがましさはまったくない。それでいて龍馬にあやかった観光地スポットもあり、人出もそれなりに多い。あいにくの曇天だったが、思い描いていたように趣のある町だ。日本のあちこちを自転車で走っていると、つい大都市の模倣をしようとして町の特色を失ってしまっている土地をよく見かける。中央資本のスーパーやコンビニ、シアトル系カフェがあるということを土地の誇りにしてしまい、地域の商店や風物を意図せずないがしろにしてしまっている。流行りのモノ、派手なモノ、若者受けするモノ、映える(バエル)モノ、なぜかみな同じく白いアルファベットのロゴ……。そうなると次第にどこも似たような町になってしまい、土地の印象は薄れてしまう。大都市と地方の町は同じである必要は無いと思う。
ここ梼原にはそんなスーパーやシアトル系カフェなどはまったくない。おかげである種の美しさを感じるのだった。
この美しい土地に、土佐勤王党の志士たちが数多く生まれた。多くは武市半平太の興した土佐勤王党に属した。有名なのは吉村虎太郎だ。彼は京に出て天誅組を組織し、奈良で挙兵し倒幕活動に打ち込む。が、そこで幕軍に討たれる。龍馬と惣之丞の脱藩を手助けした那須信吾も、土佐藩の佐幕派指導者である吉田東洋を暗殺。後に京に上り天誅組に加入。同じく奈良で討ち死にした。他にも多数の志士たちがこの梼原から生まれ倒れていった。吉村や那須のように名を馳せたものもあれば、時代の走狗となり露となって消えていったものも多かった。そして龍馬と惣之丞も、ここ梼原を通り、維新の嵐に船出し、そして志半ばで、死んだ。つまり土佐の志ある者はここ梼原を出て行き、そしてみんな死んでしまった。
町外れに「維新の門」という土佐と梼原ゆかりの維新の志士達の群像があるので、ぜひ訪れてみてほしい。その躍動感あふれる造りに見入ってしまうことだろう。当時、時代の寵児たちがこの静かな町から旅立って行き、倒れた意味とは何だろう。維新の門。きっと読者の皆さんも時代に思いをはせるに違いない。
二人して銅像の前に立ち、高揚感にしばし浸っていた。
土佐の厳しさを思い知る
さて維新の門で、感傷的な思いでいるところをシシャチョーのダミ声が遮る。
「井上はん、そろそろ行かなアカンのと違いますか? 宿はまだだいぶ先でっしゃろ!?」
はっ、と我に帰り時計をみると、針は午後1時を差している。「あ! 本当ですね! これはマズイ! そろそろ出発しましょう!」慌てて自転車にまたがった。
ここからいよいよ最も厳しい山中に進んでいく。向かうは韮が峠。いろいろな情報を集めてこの道をたどってきたが、どうやら峠にたどり着く前に1つ2つ山道があるらしい、昨日の朽木峠同様に担がねばならない。そう思うと気が重かった。さらには峠に向かって進むうちに、斜度がだんだん増してくる。二人共次第に会話が少なくなっていった。
茶や谷という土地に出た。ここは司馬遼太郎の本に出てくるところで、特徴的な茶堂という建物がある。プリミティブな雰囲気に非常に興味を惹かれたが、今日は早朝からここまで二人とも結構体力を使ってしまっている。撮影もそこそこにして峠を目指さざるを得なかった。
茶や谷の厳しい上りにさしかかると山の向こうに陽が落ちるのが見えた。まだ午後3時半なのだが、山深いために日が隠れてしまうのだ。急に気温が落ちてくる。しかも周囲には人っ子一人いない。おまけに有名な街道ではないため、事前に取得したデータにミスがあって、またまた山道の入り口がわからなくなった。右往左往してようやく見つけるも、時刻は4時半になっていた。
カメラを2台積んでいる私は山道にたどり着いたときはシシャチョーよりも遅れ、肩で呼吸するぐらい息が上がってしまっていた。それを見たシシャチョーが「ちょっとワシ、道を見てきますわ!」と山道を駆け上がっていった。しかし5mほど進んだところで「アカン!!! 倒木だらけや! これは無理やで!」と叫ぶ。見上げると草だらけのシシャチョーが手で大きくバツ印を作っていた。
迂回路を探そうと二人してタブレットの地図を広げ凝視する。このままジープロードを進んでいけば別の山道にたどり着き、大回りするがもともとの山道に接続しているようだ。が、しかしここも通れるかどうかまったく分からない。とりあえずジープロードを進んでいく。だが3kmほど上ったところで辺りはすっかり暗くなってきて、アラフィフ真っ盛りのオッサン二人の視野から彩度を奪い取りはじめた。
「……迫田さん、これはダメです。このままでは遭難します。道を下りましょう」
「え? 遭難? たどり着けまへんのか?」とシシャチョー。
「さすがに情報が少ないから、この先どうなっているのか行ってみないと分かりません。でももう日暮れになってしまう。今からの山中での行動はマズイです。ここから下りて国道を回って宿にたどり着くしかありません。」
意を決して下界まで下らざるを得なかった。苦労して上ってきた道を下りるのは正直悔しかった。でもしかたがない。見覚えのある交差点まで下りたところで、何と今度は雨が降ってきた。ずぶ濡れで夜中までかかって愛媛まで行くのか……。雨に打たれながら行程を確認しつつ距離を測った。ここから40km……。その途端、たどりつく気持も砕け散った。
しかたなく宿に断りの電話を入れる。事情を話すと「分かりました。いやいや、キャンセル料は要らないですよ。コロナでも来ようとしてくださっただけで感謝してますから。他に今日お客様はいらっしゃらないので……。それより気をつけて旅をつづけてくださいね!」宿の女将さんの言葉に思わず涙が出た。後日お礼の品を送ったのは言うまでもない。
再び噛みしめる地元の人々の親切さ
そうと決まったら梼原に取って返そうということになり、ガンガンとペダルを踏んで下っていく。梼原までの20kmはあっという間だった。
しかし梼原に着いてまたもう一難。何と宿が1軒も空いていないのだ。どこを探してもない。営業している宿に直談判しても「今日は申し訳ありません」のつれない一言。近くのタクシー会社で聞いた宿も訪れてみると「コロナ禍で休業」の看板が……。残る手段は昨日の宿に取って返すかだが、それも虚しい。
途方にくれて二人して自嘲気味に「今日は野宿でもするか! わははははは」などと大声で話していたところ、信号待ちをしていた犬を連れた初老の男性が声をかけてきた。
「なに、アンタたち寝るところがないのか?」「は、はい! 無いんですわ!」とシシャチョー。「俺の友達がこの前、近くの町に宿を開いたんだ。そこを聞いてやるよ!」そしてこの男性が宿を取ってくれた!
梼原から6kmほど進んだ先の町に、小学校の廃校を利用したゲストハウスを開業しており、そこを取ってくれたのだ。地獄に仏とはまさにこのこと。
シシャチョーと二人手を取り合って喜んだ。あのときに交差点で自嘲気味に大声で話してなかったらこの男性も気づいてくれなかっただろう。このときばかりはシシャチョーのダミ声に感謝!
今日も土地の人の優しさに大いに助けられた。本当にありがたいことだ。廃校後の宿は居心地も良く、管理人の女性も懇切丁寧に施設のことを教えていただいた。
本当に感謝の連続だ。
宿の五右衛門風呂に浸かりながらホッとした気持ちになった。
さて、明日をどうするかだ。もう一度山道を探すか、幹線道路を迂回して韮ヶ峠に向かうか……。思案しつつ床についた。雨は上がっている。寝床から見える山の尾根には満点の星が輝いていた。
参考文献:
「竜馬がゆく」司馬遼太郎著 文春文庫
「街道をゆく 因幡・伯耆のみち、梼原街道」司馬遼太郎著
「龍馬史」磯田道史著 文春文庫
「真説週間歴史の道 坂本龍馬 脱藩の道」 小学館
「坂本龍馬 脱藩の道を探る」村上恒夫著 新人物往来社
「坂の上の雲」司馬遼太郎著 文春文庫
「新装版 今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州」今井金吾著 JTB出版事務局
「新装版 今昔東海道独案内 東海道」今井金吾著 JTB出版事務局
「新装版 今昔中山道独案内 中山道」今井金吾著 JTB出版事務局
「地名用語語源辞典」東京堂出版
「現代訳 旅行用心集」八隅盧菴著 桜井正信訳 八坂書房
「宿場と飯盛女」宇佐美ミサ子著 岡成社
「北国街道を歩く」岸本豊著 信濃毎日新聞社
「歩く江戸の旅人たち」谷釜尋徳著 晃洋書房
「道路の日本史」武部健一著 中公新書
「フォッサマグナ」藤岡換太郎著 講談社
「図解気象入門」古川武彦・大木勇人著 講談社
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