旧街道じてんしゃ旅 幕末・明治維新の道をゆく 龍馬脱藩の道編 三日目(最終日) 梼原町(高知県)〜大洲(愛媛県)
目次
サイクルショップ(ストラーダバイシクルズ)とツアーイベント会社(ライダス)の経営者(井上 寿。通称“テンチョー”)と自転車メディア・サイクルスポーツの責任者(八重洲出版・迫田賢一。通称“シシャチョー”)の男2人、“令和のやじきた”が旧街道を自転車で巡る旅企画。今回の旅は「幕末・明治維新の道をゆく」。土佐から大洲(おおず)まで、坂本龍馬脱藩の道をたどりながら明治維新の志士たちが通ったであろう道を走り、想いをはせる旅となるのか。三日目は梼原町から再度、韮が峠を超えてゴールの大洲まで向かう。
やっとの思いで「韮ヶ峠」へ
昨日は韮ヶ峠にたどり着けず、梼原まで引き返すことになった。今まで旧街道をサイクリングしていて、峠の途中で諦めて帰った経験はなかった。旧東海道の箱根越えも、旧中山道の碓氷峠や和田峠も、そして旧甲州道中の笹子峠も、単独走行のときは全て旧道の峠を越えてきた。あるときは自転車を担ぎ上げ、前輪を外して手持ちで運んだこともあった。それでも無理すること無く峠を越えてきたのだ。それが昨日の韮ヶ峠で初めて挫折を味わった。韮ヶ峠への道はいままでの旧街道の峠道とは比べ物にならないほどきつく、そして狭くヤブだらけだった。それはまさに登山道と言っても良いぐらいの山道。事前にもっと詳しく調査をしておくべきだったと後悔しても後の祭りだ。
そして得たものは「挫折」と「リヤディレーラーの破損」だった。
昨日の山道のどこかでリヤディレーラーを木の枝にでも引っ掛けたのだろう。今朝、宿を出発してすぐに変速の不調が始まった。次第にシフトレバーを押しても変速しなくなり、バッテリー切れかと慌てて道端で自転車を止めてチェックした。よく見てみるとリヤディレーラーのワイヤーケーブル取付部の樹脂部分が割れてしまっており、ケーブルの端子もひん曲がっている。ケーブルの銅線がむき出しになっており、今にもちぎれてしまいそうだ。峠道の担ぎ区間でどこかに引っ掛けたのは明らかだった。幸いにも手で押し付けると通電するようなので、とりあえずいつも20cmほど丸めてバックに忍ばせているダクトテープを取り出して手で細切りにしリヤディレーラーに巻きつけてみた。
シフトレバーを押してみると、ギュイン! ギュイン! ちゃんと変速する。よし!
汚れた手もそのままに自転車にまたがり、先行するシシャチョーを追いかけた。
屋根付き橋で有名な三嶋神社でシシャチョーが待っていた。
「災難はここまでで終わるようにお祈りしていきましょうや!」とシシャチョー。
「そうですね。土佐と伊予の道は相当に険しいですから」。
「これからはオラ・オマンでいこう」
その後は、昨日通った道を再び走る。何だか虚しく感じるがしかたあるまい。そのまま黙々と上りをこなしていく。県道379号に出た。いかにも自動車のために作りましたと言わんがばかりの現代的な道だ。旧街道じてんしゃ旅としては少しつまらないと感じたものの、他に道がないのだ。この道を行くしかない。それにしては少々上りがきつく感じる。オッサン度が増して体力が落ちている上に、昨日からの徒労感が上乗せになっているようだ。そんなことで随分時間が掛かったように思えたが、黙々と上り坂を走り、何とか韮ヶ峠にたどり着いた。
二日掛かってついに着いた!
司馬遼太郎を始め、数々の歴史小説家たちが訪れてきた韮ヶ峠。梼原と並んでこの旅の大きな目的地だったのだ。企画段階からずっと想像してきた。そしてわれわれもようやく越えることができたのだ。思わずシシャチョーと二人でハイタッチする。
「いや〜きつかったですなあ」
「昨日の苦労を考えると……何とか無事に越えられて良かったです」
「ここを龍馬たちは越えて行ったんですなあ!!」
5月上旬で気温も上がってきているものの、峠に吹く風は爽やか。熱くなった体を冷やしてくれるには充分だった。しばらく風に吹かれながら感動の余韻に浸っていた。
司馬遼太郎の本によると、峠にたどり着き、いよいよ国境(くにざかい)を越えようとするそのときに、龍馬は惣之丞対し「これからはオラ・オマンでいこう」と言ったという。
国許を出奔し、浪人となったわけだ。身許がバレてはいけない。そしてどちらかが志半ばで倒れても名無しの二人であるから弔うこともしない。気に留めることもない。そのような決意だったのかもしれない。脱藩当時、二人は二十代半ばだったはずだ。
思わず自分の二十代を思い返し、自嘲してしまう。それだけ自分を賭ける何かが当時の自分にあっただろうか……。
何だか「龍馬」がいっぱい……
「とりあえず記念撮影しましょうや! お! ここにも龍馬の像がありまっせ!」とシシャチョー。
「ちょって待って!今日は三脚を据えて撮ります。やっと来た韮ヶ峠ですから!」私は三脚をセットしてファインダーを覗き込み、構図を決めて調整していたのだが、ふと違和感を感じて、眼をはずし像を見た。
韮ヶ峠という石の道標の横にちょっと小ぶりな龍馬の銅像が建てられている。でも見ると何だか妙な感じがするのだ。
おかしいな。確か龍馬は身長が六尺以上ある大男だったはず。この龍馬は妙に小柄だな……。
近づいて見てみると、それは銅像ではなく薄い立体彫像だった。しかもちょっとツヤがあったりする……。
個人的な感覚で申し訳ないが、私にとってはそれは遊園地の看板みたいに安っぽく見えてしまい、韮ヶ峠の存在や峠を越えた達成感など、一気に興ざめしてしまった。
何だか昭和の観光地を見ているような気がしたのだ。
いや、それはここまで龍馬脱藩の道を走ってきてずっと感じてきたことだった。土佐にとって、いや日本にとって、坂本龍馬は偉人であることは間違いない。地元にとっては大切な誇りであり、大切な観光資源であることも理解できる。しかし至る所に「龍馬、龍馬、龍馬」となってしまうと、少し食傷気味になってしまう。それらが景観や歴史に配慮されている字体やデザインなら問題ないのだが、何だか汎用ワープロソフトで作ったロゴだったり、派手な色使いだったり、キャラクター調だったりすると、途端に安っぽく見えてしまう。そのうち白いアルファベットの立体ロゴで「RYOMA」なんてものが建てられるのではないかと危惧する。
説明書きの看板などを読んでも、何でもかんでも「龍馬が通った」「龍馬が飲んだ」「龍馬が食べた」などとなっていて、逆に疑わしく感じてしまう。実際、脱藩の道の正確な道程などは口伝えの記述だけで、当人たちの書いた史実としては残されていないようなのだ。類推や想像の部分があるだけに、まるで龍馬の一挙手一投足を見てきたような書きっぷりに疑いを感じてしまっていた。
「龍馬人気にあやかりたい」「うちの地域にも龍馬を!」というのは分かる。だが一人の旅行者として、龍馬ファンとして、実際、土佐を出てからずっと幻滅してしまっていたのである。
そしてそれはここだけの話ではない。日本のあちこちの歴史的な名蹟に、デフォルメされたキャラクターの像が建てられ、看板が建てられ、テーマパーク化している。持続可能性とは程遠い状態だ。文化や歴史を尊重した観光地づくりが必要なのではないかと思う。
険しいけど楽しい道の連続
すこし幻滅気味だった龍馬脱藩の道だが、道や風景は相変わらず素晴らしい。昔の旧道そのままの道が残っていたり、舗装路もくねくねと地形に沿って斜面に貼り付いていて昔の名残を感じさせてくれる。辺りの集落や田んぼは相変わらず美しく、山間から聞こえる川の流れも良く聞こえる。大自然の中を走っていく感覚を存分に楽しんで行けた。
未舗装路の道をしばらくずっと上っていくと、突然開けたところに3軒ほどの家があった。まわりには畑もあるようだ。こんな山中になぜ家があるのかと驚く。集落に近づいていくと、先行していたシシャチョーが農家のご婦人と思しき人と話している。この御婦人はこの山中に独りで住んでいるという。数年前ご主人を亡くしてしまい、子供から町に出て一緒に暮らそうと言われているのだが、ご主人と暮らした家を離れられないということだった。もともと松山市に働きに出て、都会に住んでいたものの、地元が忘れられずに、仕事を退職後、二人で移り住んできたという。
「脱藩の道は険しいけど頑張って走ってくださいね!」と励ましの言葉をいただいた。
土佐を出てから今日に至るまで、地元の人々から暖かい言葉をかけていただいた。先程の景色や景観でブツブツ言っていた自分が少し恥ずかしくなってしまった。
「井上はん、この先はまた担ぎ押しで、しかも途中でどうなっているか分からんのでしょ? しかも龍馬が確実に通ったかどうかも分からんのでしょ。取材日も今日が最後やし、確実に通ったとわかる川のところまで下っていきましょうよ!」シシャチョーの提案で、一気に肱川(ひじかわ)まで下ることにした。二人とも気持ちよく走りたくなっていたのかも知れない。そこからは30分ほど豪快なダウンヒルを楽しんだ。
日本をいま一度洗濯いたし申し候
陽が西に傾き始めたころ、肱川にたどり着いた。龍馬が船に乗ったという辺りで止まり、ゴロゴロとした石が転がる川辺に降りてみた。深緑色の肱川は水量も多く、たくましいイメージの川だ。ここから二人は長浜の港まで水路で旅したという。
大洲城で撮影を済ましたあと、われわれも船旅よろしく、川沿いの堤防の上の道を滑るように高速で走った。周囲は川ギリギリまで山が迫りだしている。その間を縫うように肱川は走っている。河口までの距離が書かれた看板が1kmごとに建てられていて、それを数えながら走った。あと2kmの看板を過ぎると、目前にキラキラと光る伊予灘の海が見えた。
やった!龍馬脱藩の道を走りきった。感動の瞬間だった。
「日本をいま一度洗濯いたし申し候」。龍馬が脱藩後、姉に送った手紙で書いた言葉だ。冗談めかしているような文章だが、その実、半分は本気で書いていたのかもしれない。龍馬はいったいどんな人物だったのだろうか。
昨今は坂本龍馬は小説で書かれているほどの活躍はしていなかったということが定説になりつつある。若い頃に読んだ司馬遼太郎の小説に心躍らせた人にはなかなか納得しづらい話かもしれない。でもどうやら船中八策なども龍馬単独のアイデアではないという。歴史の教科書からも消えかけているという話も聞いた。
だが、彼が薩長同盟の盟約の論議の場に、一介の素浪人でありながら同席し、証文に裏書きをして証人となったのは事実であるし、海援隊や亀山社中を組織し動き回ったのも史実だ。土佐の郷士でありながら、幕臣である勝海舟と関係があったのも事実で、時代背景を考えると、どう考えても破天荒な人物だったと思う。実際に歴史に関わった人物であることには間違いないだろう。
しかしそんなことより、坂本龍馬は、司馬遼太郎の小説で「竜馬」となって現代に現れ、人々の心を動かしたことは揺るぎのない事実だと思う。
「世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る」龍馬の有名な句である。
前例主義がはびこり、同調を求められる現代の日本。それは幕末当時の土佐も同じではなかっただろうか。朱に染まることなく己を信じて突き進んだであろう龍馬の信念が現れている句だと思う。
長浜の浜辺に立ち、ふとこの句を思い出した。シシャチョーもいつになく神妙な顔をしている。伊予灘に沈まんとする夕陽を見ながら旧街道じてんしゃ旅を続けることを誓った。
参考文献:
「竜馬がゆく」司馬遼太郎著 文春文庫
「街道をゆく 因幡・伯耆のみち、梼原街道」司馬遼太郎著
「龍馬史」磯田道史著 文春文庫
「真説週間歴史の道 坂本龍馬 脱藩の道」 小学館
「坂本龍馬 脱藩の道を探る」村上恒夫著 新人物往来社
「坂の上の雲」司馬遼太郎著 文春文庫
「新装版 今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州」今井金吾著 JTB出版事務局
「新装版 今昔東海道独案内 東海道」今井金吾著 JTB出版事務局
「新装版 今昔中山道独案内 中山道」今井金吾著 JTB出版事務局
「地名用語語源辞典」東京堂出版
「現代訳 旅行用心集」八隅盧菴著 桜井正信訳 八坂書房
「宿場と飯盛女」宇佐美ミサ子著 岡成社
「北国街道を歩く」岸本豊著 信濃毎日新聞社
「歩く江戸の旅人たち」谷釜尋徳著 晃洋書房
「道路の日本史」武部健一著 中公新書
「フォッサマグナ」藤岡換太郎著 講談社
「図解気象入門」古川武彦・大木勇人著 講談社
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