旧街道じてんしゃ旅 幕末・明治維新の道編 会津西街道をゆく 今市宿(栃木県日光市)〜会津(福島県会津若松市)
目次
サイクルショップ(ストラーダバイシクルズ)とツアーイベント会社(ライダス)の経営者(井上 寿。通称“テンチョー”)と自転車メディア・サイクルスポーツの責任者(八重洲出版・迫田賢一。通称“シシャチョー”)の男2人、“令和のやじきた”が旧街道を自転車で巡る旅企画。今回の旅は日光から会津若松城下を結ぶ「会津西街道」。幕末・明治維新をたどる最後の旧街道は、戊辰戦争の舞台となった会津へと向かうじてんしゃ旅。
日本人同士が戦った悲しい歴史の道
幕末・明治維新の道編の取材を重ねているうちに、戊辰戦争に関わる旧街道を取材しようということになった。日本人同士の戦いのなかで史上最大の内戦だったこの戦争を取材せずしてこの企画は完成しない気がしていた。実際に今まで取材したなかで幕府側のものは京の壬生(みぶ)寺や三条周辺の史跡のみで、どちらかというと旧街道とは言えないものばかりだった。
戊辰戦争と旧街道というと、やはり史実として、また物語としても語り継がれているのは会津藩の白虎隊であろう。シシャチョーもぜひ白虎隊に関わる道は走っておきたいと希望していたので、今回は「会津西街道」を走ることにした。
会津西街道は、徳川家の墓所に向かう旧日光道中の今市宿の追分を基点として、会津若松城下に伸びる旧街道だ。会津藩は徳川家との縁が深い松平家の支配地であり、江戸幕府の親藩であった。戊辰戦争で新政府軍は、この会津西街道を使って会津藩まで攻め込み、会津若松城下で決戦に及んだ。会津戦争と呼ばれている。
白虎隊は藩主の松平容保を守るべく結成された少年部隊だった。十代の武家の男子たちによる決死隊のようなものだったという。勢いに乗る新政府軍に対し劣勢に立たされ、20名余りの少年たちは戦いで死亡、そして自刃に至ってしまった。
その悲しい物語はたくさんの小説や映画、ドラマの題材になっていることは周知のとおりだ。
この物語があるからだろうか、今回の旅ではなぜか二人とも神妙な気持ちで取材に取り掛かった。今回のシリーズの最後の取材地だったこともある。
思い出の今市宿を出発
今市宿は旧日光道中、日光例幣使街道と会津西街道三つの旧街道の追分の街でもある。
「いよいよ戊辰戦争の道を走りますね。ここを新政府軍は会津に向かって攻め上って行ったんですよ」。
「日本人同士の内戦があったんですな……。ほんの150年ほど前に。何か信じられまへんな」。
出発前と同様に神妙な気持ちで出発した。
走り出してしばらくは杉並木が続く。ここも旧日光道中と同じく、江戸時代のものが現存している。
初秋になって周囲の田んぼの色も緑の中に黄金色が混じり始めている。遠くの山々にたなびく雲と足元に広がる金色の田んぼの対比が美しい。シシャチョーに何度か往復してもらって写真を撮りまくった。
何の変哲もない農村風景が我々にはどんなテーマパークよりも魅力的に見える。この風景は1年のうちのほんの少しだけの期間しか見られない。来月に訪れたらもう稲刈りは終わってしまっていて、また違う風景に見えることだろう。
思わぬ事故に遭う二人……
ほどなく鬼怒川宿に到着。言わずと知れた鬼怒川温泉の地だ。90年代に首都圏で温泉というと鬼怒川温泉と言われていたぐらい有名な温泉……なのだが、山中にビルのように並び立つホテル群に、ところどころ黒くくすんでしまっているところがあり、まるで歯の抜けたくしのように見える。どうやら廃墟になっているようだ。これには正直驚いた。
高度経済成長時代からバブル経済末期ぐらいまでに建てられたコンクリート製の建物。自然の山の中に建てまくったビル群がわずか3、40年ほどで朽ちてしまう。その後の景観は、もはや見られたものではない……。経年変化しても景観や景色に馴染むような建て方ができなかったのだろうか……。今となっては後の祭りだが。
鬼怒川温泉を抜けて小休憩を取ることに。公園があったので入り口に自転車を停める。二人ともアラフィフとは言え、出版社の事業部長と、小さいながらも2つの会社の経営者。送られてくるメールやSNSをチェックし、返信したり電話をしたり……。特にこの日は忙しく、ずっとスマートフォンを握りっぱなしだ。休憩というよりもこれらの対処のための停車というのが正しいだろう。
「あ、井上はん、ワシちょっくら用を足してきますわ!」とシシャチョー、ロードバイクにひょいと飛び乗り公園の中のトイレに向かった。
「はいはい!」と返事し、引き続きメール返信のためにスマートフォンに目を落としたその時だった!
ガシャン!!
「ぐぅ! あぁぁぁぁぁぁ!」
シシャチョーが公園の中で倒れている。滑って転んだらしい。ロードバイクは3mほど先に吹き飛ばされている。
「だ、大丈夫ですか!!」とシシャチョーに駆け寄ろうと公園に入った。
ズルッ!!
その瞬間、私は空の中に自分の足先を見ていた。
ガツッ!!
左手に激痛が走る。私はまるでコメディアンがずっこけるような形で滑り、左上半身から地面に叩きつけられた。
「うぅぅぅうぅぅぅっ……」。
「ぐがっ!……」。
じっとりと湿った薄暗い公園の中で、おっさん二人が地べたに這いつくばりうめいている……。二人とも脇腹を打ち付けたらしく、声を出すことも起き上がることもできない……。1分、2分と時間が過ぎる。
しばらくして、どちらからともなく起き上がり声を掛け合う。
「だ、大丈夫ですか……というか……ミイラ取りがミイラになったような……」と筆者。
「く、くそっ……何にもしてへんのに転んだ……」とシシャチョー。
公園の入り口のスロープの部分が薄く苔に覆われていて、まるで氷のように滑りやすくなっていたのだった。いや、それはもう氷そのものと呼んでもいいぐらい滑る!
立ちあがろうとして左手をついたのだが、手首に激痛が走った。握りしめていたスマートフォンのガラスは割れ画面にヒビが入っている。
シシャチョーはまだ起き上がれないようだ。脇腹を抑えながらうなだれている。ヘルメットを打ち付けたのだろう、白いヘルメットに緑の苔が付いている。
二人ともヨレヨレになって立ち上がり、スロープ部分から退避した。
まったく! こんな危ないスロープ話にならない! 苔がタイルを覆っているなんて、かなり長い間掃除していないに違いにない。
もしお年寄りや子供が足を踏み入れていたらどうするのだろう。全てを完璧に整備するのは難しいだろうが、足を踏み入れる場所ぐらいはメンテナンスして欲しいものだ。
管理が行き届かないならこんな建造物を作らないほうがましだろう。
やり場のない怒りを感じながら、痛みを耐えつつ公園を出た。傷ついた腕時計を見ると40分が経ってしまっていた。
(後日、二人とも病院で診察を受けたが、シシャチョーは肋骨を、筆者は手首を骨折してしまっていた。)
痛みに耐えながらの旅
しばらく二人ともほとんどしゃべることなく走った。シシャチョーは股関節も打ったらしく足もひどく痛むようだ。私は手首が痛くてハンドルをうまく保持していられなかった。
昼食に入った食堂でシシャチョーが事情を話し、近くに薬局がないか聞いてみる。しかし周りには一軒も無いという。
意気消沈。しかたなく二人してラーメンをすすっていると、女将さんが自宅から湿布を取ってきてくれた。何とうれしい! 感涙のシシャチョー。それだけで少し痛みが和らいだ気がしたようだ。
午後もひたすら黙々とペダルを踏む。旧街道らしい文物は残念ながらほとんど残っていない。何とか最後の峠で一里塚や関所跡を見ることができたが、何だか気が散ってしまい、あまり記憶が残っていない。
まだ陽のあるうちに会津田島宿にたどり着いた。夕げの鰻と唐揚がとても美味だったことで少し救われた気がした。
楽しみにしていた大内宿へ
翌日の朝も痛みは引かなかった。とりわけシシャチョーは股関節の痛みがひどいようで歩くのもままならないようだ。その様子を見た瞬間、この旅を完遂することは諦めた。なにせ今から最もきつい坂道を越えねばならない。
「井上はん、悔しいけど輪行するしかないですわ!」
「まあこれも旅ですよ。今までは絶対に輪行はしないってこだわってましたけど……。昔の旅人も疲れたら駕籠に乗ったり、馬に乗ったりしたそうですから。」
ということで会津鉄道の会津田島駅から湯野上温泉駅まで輪行し、そこから目的地の大内宿に入ることにした。シシャチョーは駅の売店でまた湿布をもらったようで二日続きで感激していた。
大内宿は会津独特の大きな茅葺住居が街道沿いに並んでいる宿場町。その姿は会津観光のハイライトと言って良いだろう。この日もかなり多くの観光客がこの地を訪れていた。家族づれやオートバイのライダー、シニアの団体旅行客、バスガイドに引率された学生達、なかにはユーチューバーだろうか、Vログを撮りながら大声で話している人もいる。いわゆる映え写真を撮っているのだろうか? 若い女性が何度もジャンプしながら自撮りをしていた。我々と同じ、旅サイクリストも2名ほど見かけた。
自転車を押し歩きしながら宿場町の中を見て回る。茅葺の屋根が整然と並ぶ姿は確かに見応えのあるものだった。
「迫田さん、どこかで写真撮りたいですね」。
シシャチョーと二人、何度も辺りを見回して撮影をしてみるがしっくりこない。
「う〜ん、何か決め手にかけますな……。なんでやろ」。シシャチョーがつぶやく。
「それはズバリ、バスで乗り付けるような観光地だからでしょうね。サイクリングでたどり着き、旅情を感じ取るような訪問地じゃないってことでしょう」と筆者。
地域の歴史や魅力を味わえる場所ではなく、大型駐車場にバスを停め、どどっと人を流し込むといった日本型の団体旅行に合わせた観光地ということだ。もちろん探せばそうした面もあるのかもしれないが、ほとんどの観光客は、時代劇のセットを見に来ているように思える。事実、本陣を利用した資料館があったのだが、そこには誰一人観光客はいなかった。
「う〜ん、すごく努力してる感はあるんやけど……生活感がない宿場町やな……」
シシャチョーの言葉が印象的だった。その後のお地蔵さんの祭られた地道に救われた気がした。
会津若松城下
大内宿を過ぎて峠の下り坂で本来は旧道を行く予定だったのだが、昨日の怪我でそれは諦めざるを得ず、国道をひたすら会津若松まで下っていくことにした。しかしそれは正解だった。延々と続く下り坂はとても快適で、怪我の影響が残る体には負担が少なかったのだ。
平地になって随分と走ったころに会津若松に到着。会津若松城下は親藩で譜代の藩だった。さぞ大きな城下町だったことだろう。現代に残されている町割りで感じることができる。そこに白虎隊をはじめさまざまな史跡が数多く残されていて、まさに戊辰戦争を知ることができる城下町だ。
ただしここも市街地化されているのでロードバイクでたどるのはなかなか厳しい。よって城のまわりを中心に見て回る感じになった。
城の堀を流しながら走っていると、観光地にありがちな顔ハメ看板が立っていた。どうやら白虎隊の顔ハメのよう。
そう言えば自動販売機にも「白虎隊くん」みたいなキャラクターでシールが貼られていたのを見た。
悲しい歴史の白虎隊をモチーフにするのはどうなんだろうと素朴に疑問に思った。
個人的には悲惨な歴史、悲しい物語の主人公たちをキャラクター化したり茶化したりするのは賛同できない。
例えば第二次世界大戦中の悲しい出来事の主人公をモチーフに顔ハメを作ったらいったいどうなるだろう……。大正なら、明治ならそれはいいのだろうか。
海外にも顔ハメは存在するが、日本のように何でも顔ハメにするような習慣は無かったと記憶する。また国を代表する歴史上の人物たちを勝手に改変してイメージ化することを禁止しているところもあると聞く。
それなのに日本は何でもキャラクター化し茶化してしまっているのではないだろうか。そんなことを独りで考えながらいると、いつの間にか地元の中学生たちが集まってきて、こぞって写真を撮りだした……。
それを面白いと思ったのだろうか、シシャチョーが
「おい! お兄ちゃん! ワシと一緒に写真撮ろうや!」と言いだした。
中学生たちも
「えっ? いいんですか!? よろしくお願いします!」なんてやっている。
「うまいこと撮ってくれよ!」とか言いながら楽しんでいるオッサンと中学生たちを見ていると、次第に「文化財のなかにあるわけじゃないし、これはこれで良いのだろう」と思えてきた。それにこんなことばかり言っていると単に面倒臭いオッサンになってしまいそうだ。
日本はもうすでにキャラクターだらけ、キレイな自然の中に派手な建築物がいっぱいあるし、色もデザインもごちゃまぜだ。もう手遅れであることは間違いない。それを見るたびに一喜一憂しても無駄なだけかもしれない。
そんなことを思いながらトロトロとペダルを踏んでいると、いつの間にか会津若松駅に着いてしまった。今回の幕末・明治維新の道もここで終わりだ。
駅の前の白虎隊の像の前で、シシャチョーと二人でポーズを真似ながら記念写真を撮った。
自分が少し柔らかくなった気がした。
参考文献:
「竜馬がゆく」司馬遼太郎著 文春文庫
「街道をゆく 因幡・伯耆のみち、梼原街道」司馬遼太郎著
「龍馬史」磯田道史著 文春文庫
「真説週間歴史の道 坂本龍馬 脱藩の道」 小学館
「坂本龍馬 脱藩の道を探る」村上恒夫著 新人物往来社
「坂の上の雲」司馬遼太郎著 文春文庫
「新装版 今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州」今井金吾著 JTB出版事務局
「新装版 今昔東海道独案内 東海道」今井金吾著 JTB出版事務局
「新装版 今昔中山道独案内 中山道」今井金吾著 JTB出版事務局
「地名用語語源辞典」東京堂出版
「現代訳 旅行用心集」八隅盧菴著 桜井正信訳 八坂書房
「宿場と飯盛女」宇佐美ミサ子著 岡成社
「北国街道を歩く」岸本豊著 信濃毎日新聞社
「歩く江戸の旅人たち」谷釜尋徳著 晃洋書房
「道路の日本史」武部健一著 中公新書
「フォッサマグナ」藤岡換太郎著 講談社
「図解気象入門」古川武彦・大木勇人著 講談社
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