「ビワイチ公式ガイドブック びわ湖一周 滋賀じてんしゃ旅」出版記念 サイクリングモニターツアー第3弾
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2022年12月初旬「ビワイチ公式ガイドブック びわ湖一周 滋賀じてんしゃ旅」出版記念 サイクリングモニターツアー、第3弾「水がつなぐ二つの古都・琵琶湖疏水と街道をめぐるサイクリング」〜まちの盛衰を探る謎解きの旅へ参加レポート。
筆者は京都の山科の出身で、大津に住んでいたこともあり、今回走ったルートはまさに地元だったが、歴史については何も学んでこなかったと……それほど内容が濃い学びの一日となった。
東海道最大の宿場町、大津のかつての繁栄を思う
当日の天候は雨の予報もあり曇天だったが、時折太陽が見えつつも、肌寒い一日だった。厚着をすると汗ばみ、手袋をしてないと手がかじかむような、悩ましげな天候だ。
大津港を出発し、行きは旧東海道を通って京都へ向かう。今回は輪の国びわ湖推進協議会で顔見知りのベテランメンバー揃いでペースが早く、初心者だとすぐに迷子になるほどだ。上り坂を進んですぐに、最初のスポット、大津宿本陣跡に立つ石碑前に到着した。出発してわずか5分ほどだ。
今は見る影もないが、大津はかつて宿場町として栄えた、交通の要衝だった。東海道五十三次の宿場町でも最大の人口だったということからも、いかに重要な土地であったかが伺える。そしてその旅人や商人を労う文化も発展していった。
1号線は、難所の逢坂山へと差し掛かる。上るほど斜度は険しさを増し、昔の旅人はこの道を大荷物を担いで上ったかと思うと感服する。米などは牛車にて都へと運んでいた。車輪がぬかるみにはまるのを避けるため、大津と京都の間は12kmに渡り「車石」と呼ばれる石を敷き詰めて舗装されていたそうだ。
逢坂山を越える人も越えた人も足を止める走井茶屋の跡地。境内には当時の井戸が残っており、コケが生い茂って時代を感じさせている。そこで振舞われた有名な「走井餅(はしりいもち)」は、井戸からしたたる水しぶきの形を模し、名水で鍛えた名刀に似ていることから、道中で剣難を免れるという縁起を担いで食されたそうだ。
もう少し京都側へ坂を下り、旧街道の道へ入ると「東海道(三条街道)」と「大津街道(伏見街道)」を隔てる髭茶屋追分(おいわけ)の道標がある。ここが京都と滋賀の県境だが、しばらくはまだ大津市内である右の道へ進む。
高速道路によって分断された東海道の反対側に出た。旧三条通だ。街道には今も車石が、家の庭石や塀として再利用されているのを見ることができる。言われなければ気付かないが、よく見ると牛車のわだちの跡が大きく残っている。
そして驚くのが、ここはほぼ京都であるはずなのに、まだ滋賀である……。この辺りは三井寺の境内だったということで、かつての三井寺の勢力がいかに強かったかが伺える。この道標から、三井寺への参道であった小関越へと向かうことができる。
県境をまたぐと京都市山科区に入る。山科も歴史が深く、天智天皇の古墳である山科陵には、彼の人が日本で最初に水時計を作ったことを表す看板がある。
府道から旧東海道へ入り、三条を目指す。道は狭く、急で、うねりながら日岡峠(九条山)を上る。中腹には「日岡峠(ひのおかのとうげ)人馬道碑」があり、当時の牛車で運ばれていた貨物が再現されている。山頂からは三条大橋まで一気に下りる。
ここまででも歴史が深く、かつて栄えていた街道の様子を想像しながらサイクリングができた。
ところで、この旅には最初に謎が仕掛けられていた。「なぜ大繁栄を誇った街道が衰退していったのか……?」そこには、歴史が進むにつれて人の流れが大きく変わる要因があったのだが謎は謎のまま午後に持ち越された。
紅葉に彩られる琵琶湖疏水をさかのぼって
復路は蹴上(けあげ)の「インクライン」から始まる。一同ここで昼食を取り、再出発だ。
インクラインとは、貨物を運ぶ舟を台車で運搬する鉄道のことだ。琵琶湖疏水の水運の廃れた今となっては使われていない線路が現存する。インクラインの一番上には、滑車とトロッコ(船を載せる荷台?)、そこから見下ろすと下の疏水につながっている。
ここから疏水の流れをさかのぼり、大津へと復路をたどる。東京遷都後の京都の盛衰を賭け、全てが日本人の手による日本初の大規模な土木事業として行われた琵琶湖疏水の建設は、1890年に第1疏水が完成した。
疏水はいくつものトンネルを通って流れているが、その入口と出口の意匠はどれも同じではなく、一つずつ異なる。それぞれに扁額(文字を書いた横長のプレート)が掲げられており、デザインとして美しいものになっている。これは琵琶湖疏水建設事業の主任技師であった田邉朔郎(たなべさくろう)のこだわりだろう。
疏水沿いは疏水公園の名で散歩道として整備されている。水の流れは緩やかで、四季の風情を楽しませてくれる。落ち葉や桜が水面を流れていく様もまた一興である。
ガイドの説明を受けるたびに疏水の流れをのぞき込み、琵琶湖疏水が非常に精巧に作られていることを知った。疏水沿いのどこを歩いても違った景色が見える。この日は紅葉が最高の見ごろだった。
一番南に張り出した場所からは、山科の盆地を一望できる。
この位置は、下を走るJRの線路にとても近い。湖西線が建設される際に、これまでより線路が疏水に近い位置に設置されることになり、崩落した場合の危険を軽減するため、昭和45年に疏水の流れは諸羽トンネルとして、より山側へ付け替えられた。
そして一同はこの日の最難所である小関峠へと向かう。小関峠(旧)の中腹には第一竪坑(たてこう)が残っている。琵琶湖疏水第1トンネルは、県境の山を越えるために、全長2436mもの距離が掘られた。両端から掘り進めてもピッタリと合わないため、また工期を短縮するために堅坑方式が日本で初めて採用されたそうだ。山の上から垂直に穴を掘り、そこからも両側に掘り進める方法だ。
急峻な未舗装路の小関越を上り切り、大津側の疏水に帰ってきた。
時代が変われば人の流れが変わり、まちの形が変わる
さて、今回の旅での謎解きだが、「栄えた街道の衰退」は暮らしや社会構造が変化することによって引き起こされた。荷物を運ぶ手段は東海道の陸運から琵琶湖疏水の水運へと替わることで東海道の街道のにぎわいは衰退し、そして琵琶湖疏水沿いの繁栄も鉄道の発達により消えていった。
宿場町として栄えてきた大津の街は、時代の変貌により姿を変えていったのだ。今は何気なく通り過ぎている大津も、歴史を紐解いてみればさまざまな表情を見せてくれる。そんな歴史の奥深さを楽しめるサイクリングだった。
今回走ったのは、ビワイチ公式ガイドブックの56ページに掲載されている東海道のコースをアレンジしたものだ。