湘南シクロクロス開成大会「GPサソウ」に、日本のシクロクロス競技の歴史あり
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1月7日の湘南シクロクロス開成大会は、GP(グランプリ)サソウと名付けて開催された。神奈川県足柄上郡開成町、酒匂川の河川敷に設営されたコースは重い芝やキャンバー、シケインなどが用意され、午前中は雪をまとった富士山が参加者を迎えた。
朝8時半にカテゴリーキッズ(小学1・2年生から)のレースがスタートし、午後3時過ぎに男子エリート1(ME1)が終了するまで、会場は和気あいあいとしながらも応援の声が絶え間なく続き、シクロクロスの人気を強く感じた。
会場のループ内側にチームテントを立てたのはチームシドと臼杵レーシング、そしてFRIETEN(フリッテン)だ。そしてこのフリッテンこそが、還暦を迎えたチームメンバーの佐宗広明を前面に立てて、今日のレースを「GPサソウ」と名付けた張本人だ。チームの足立晴信氏に話を聞いた。
クロスの鬼、佐宗広明
フリッテン 足立晴信氏 インタビュー:
「佐宗さんとの出会いは1995年のクロスで試走中に出会った感じです。一方的に存じ上げてはおりましたが、当時の彼は“クロスの鬼”と呼ばれ、こちらから声をかけるのは恐れ多いといった感じでしたが、試走中に、ライン取りをご指導いただくなどを声をかけてもらいました。その後、レース前に佐宗さんに合わせて試走に行き、親しくさせて頂くようになりました。カントクが言う所の“サソウ道場”です。
そのサソウ道場生が、佐宗さんと同じくワールドカップに出場することなどもあり、個人で行けるならヨーロッパのレースを見たい、体感したいといったところでプライベートでついていきました。
その後、ロードレースも見てみたいと、その遠征でお世話になった方とコンタクトを取り続け、ローカルレースを観たり参加したりしておりました。その中で、レースの運営やスタイルなど、えらく日本とは違うなぁ、と思いながら見ていました。
国内に戻って、広い目で自転車文化(特にレース)を見渡すと、道路環境ももちろんですが、アマチュアリズムが根底にある日本のスポーツと、貴族の文化からパトロン文化へといわゆる「プロ」が成り立つ世界では、何もかもが違うと感じました。その中で、ヨーロッパのように発展するのは困難極まりないと感じていました。
そんななか今回、奇しくも佐宗さんの「還暦までC1に残留を果たせたらマスターズに移行する」の言葉に合わせるかのように、還暦を迎えたタイミングでのコロナ明け開成シクロクロスの再開と、私が事業をはじめたことにより、パトロンになれる状態。これらが申し合わせたかのようにそろったため、当初から内輪で”ごっこ”としてGPサソウと呼んでいた地元の大会を名実ともに実現させ、国内で開催されている大会とは趣の異なった、ヨーロッパの風味を皆さんにちょっぴり感じてもらえればと思った次第です。
私が、足掛け10年ほど通ったベルギーの片田舎で出会った、地元出身の選手の応援団。そしてカフェに集う有志達が、シクロクロスの世界選手権を誘致していく様子を見てきました。そんなスタイルを文化としてとらえ、憧れていました。日本ではちょっと難しいよねと思っていましたが、色々なタイミング、ご縁がドンピシャリと重なり、まさか小さいなりにも自分がこんな流れを掴めるとは! 自転車の神様に感謝です。」
日本のシクロクロス競技の歴史
ここで日本における競技としてのシクロクロスを短くおさらいしておこう。
1970年代から80年代にかけて、日本には競技としてのシクロクロスに関する情報が少なく、ヨーロッパで実際に競技を見たことがある人はかなり少なかった。フランスの雑誌「ミロワール・シクリスム」を購読していた意識高い系の人は、自転車を右から乗り降りしている写真や、シケインをバニーホップしている写真を見て驚いた記憶があるという。50年前とはそんな時代だった。
これに対してシクロクロス車というものはもう少し知られていて、ドロップハンドルにバーエンドコントロール、カンティブレーキ、ブロックパターンのチューブラー、これらの機材でシングルトラックを走り回る人たちがわずかながら存在した。メビウスやアマンダなどの工房がシクロクロス車を得意とした。
1983年、そんななかから森幸春氏(1951〜2014)が単身、シクロクロス世界選に出場。47位で完走した。その後、藤森信行氏がオランダ留学中に経験したシクロクロスを日本に持ち帰り、ヨーロッパのスーパープレステージ(ポイントのつくシリーズ戦)をお手本に86年、シクロクロスミーティング(シリーズ戦)をスタートさせた。これが日本のシクロクロスの夜明けだ。
同ミーティングは各地で開催されたばかりでなく、海外から選手を招いて(ハイネケンビールのスポンサードもあったと伝えられる)ホームステイしてもらうなど、生の情報を貪欲に取り入れた。89年には同ミーティングの活動の成果として大原満(信州大学=当時)氏とメカニシャンをオランダに遠征させた。この遠征もミヤタ工業とアマンダスポーツの支援によるものだという。ただ自腹で頑張るだけでなく、積極的に支援を求め、観客=市民とともに育っていきたいという、そんなポリシーがここには見られる。
この頃のリザルトには、大原氏と常に優勝争いを繰り広げた小坂正則氏(スワコレーシングチーム)の名前がある。小坂氏は言わずと知れた小坂光(2017シクロクロス日本チャンピオン=宇都宮ブリッツェン)の父だ。そして小坂氏と同じ年齢の佐宗広明氏の名前もリザルトに登場してくる。
佐宗氏の同ミーティングにおけるリザルトは88年頃から見つけることができる。大原氏と小坂氏という2強に対して、1ラップされながら入賞した3位のポディウムで浮かない顔をする佐宗氏の写真が残っている。
96年には日本代表としてベルギーに遠征し、ワールドカップを走った。このときコクサイデでマテュー・ファンデルプールの父、アドリと同じレースを走った鈴木雷太氏は、「あのときの俺は神がかっていた」(鈴木)と同一周回完走を果たしている。このときの代表メンバーには他に鈴木祐一氏や池本真也氏らがいたそうだ。
あれから40年、シクロクロッサーとして走り続け、エリートカテゴリーで還暦を迎えた佐宗氏は、まさにレジェンドと呼ぶにふさわしい。
今回のGPサソウで興味深い話を聞いた。日本でシクロクロスの全日本選手権が初開催されたのは96年のこと。そして、全日本を開催する大きな理由が、選手たちにはあったのだそうだ。
それはUCIポイントだ。ヨーロッパのレースを走ることのない日本の選手たちは、当然のことながらUCIポイントを持っていない。今では国内でもUCIポイントを得られる大会が開催されているが、当時はそんなことはあり得なかった。唯一、日本自転車競技連盟が開催する全日本だけは、UCIポイントが認められる。世界を(ヨーロッパを)目指したシクロクロッサーにとって、全日本の開催は絶対条件だったことだろう。
第1回シクロクロス全日本、佐宗氏は4位。このときのリザルトをひっさげてベルギー遠征のメンバーに加わり、ローカルレースの受付に並んだ氏は、UCIポイントを持っているかとの問いに「20ポイント」と答えた。後ろに並んでいたベルギー人たちがざわめくのを感じたという。ポイント保持者は前列に並んでスタートすることができるのだ。このとき佐宗氏は33歳だった。
佐宗氏は、宣言通り今後はマスターズにカテゴリーを変えてシクロクロスを続けていく。もし同じレースを走ることがあったら試走で声を掛けてみてはいかがだろうか? かつての「クロスの鬼」から、懇切丁寧なアドバイスがもらえるに違いない。
湘南シクロクロス 開成大会 GP佐宗
開催日:2024年1月7日(日)
開催地:開成水辺スポーツ公園(神奈川県足柄上郡開成町)
距離:25.30km(0.30km+2.50km×10Lap)