1990年のジロ・デ・イタリア 市川雅敏インタビュー
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今年もジロ・デ・イタリアが始まる。新城幸也選手の出場もあり日本でも大きな注目を集めている。
このレースに初めて出場した日本人は市川雅敏。チームはジロの前週に終了したツール・ド・ロマンディーでの彼の活躍を評価。ここで日本人初のジロ出場が決まったという。
ピークス・コーチング・グループの中田尚志が、ジロに至るまでの話を聞いた。
“ジロには出たいと思っていた。何としても。”
1990年のゴールは?と訊くと市川は即座にそう答えた。
所属するフランク・トーヨーが最も重要視するレースはジロとツール・ド・スイス。市川自身の目標であり夢でもあったジロはチームの目標でもあった。
市川はチーム監督のダニエル・ギジガー(現スイス・トラック・ナショナルチーム・コーチ)が作成したトレーニング・プログラムにより準備を進め、春先のティレーノ・アドリアーティコでは山岳リーダーになるなど順調な仕上がりを見せていた。
続くツール・ド・ロマンディ。ここで市川はジロ出場を決定的にする。
エースのロルフ・ヤールマンを献身的にアシストし総合8位に導いたのだ。最終ステージ走行中にチームカーを運転するギジガーから呼び出され「マサ、トゥ、ヴァ、ジロ」(マサ、ジロに行くぞ)と出場の報を受け取る。
市川は集団に戻り”ついに自分もグランツールを走る日が来たか”とコース沿いに見えるレマン湖をしばし眺めた。アマチュア時代からヨーロッパで選手生活を共にしてきたスティーブ・ホッジもロマンディーに参戦していた。集団内に彼を見つけ「俺もジロに行くことなった」と報告すると大きな祝福を受けたという。
ステージ終了後、市川のアマチュア時代を支えたジョン・ジャック・ループ氏は「マサ、今がチャンスだ。今のお前なら、ジロを走れるよ。お前はマヴィックチームで上りを前で走れたときと同じように、プロの山岳ステージでもトップ集団で走れるところに来た。セ・ヴィアン」そう言って、彼を抱きしめた。
“俺たちの時代”
プロ入りして4年。それまでも何度か暫定スタート・リストに名を連ねながら出場の叶わなかったグランツール。上りの厳しいクラシックでは最後の20人程度に絞られても先頭集団に残る実力がついていた。すでにプロで勝ち星も挙げていた。
プロ入り当時に憧れだったトップ選手たちに陰りが見え始めると共に、自身が表舞台に躍り出る準備が出来ていると感じていた。僚友スティーブ・ホッジと共に市川は「俺たちの時代」が来ていることを実感していた。
1990年5月18日。アドリア海に面するイタリア南部の都市バーリで開幕したジロ・デ・イタリア。日本人として初めてプロローグに臨む市川雅敏の姿があった。
この3週間後、市川は総合50位でミラノにフィニッシュ。日本選手初のグランツール完走という金字塔を打ち立てる。
中田尚志
ピークス・コーチング・グループ・ジャパン代表。パワートレーニングを主とした自転車競技専門のコーチ。2014年に渡米しハンター・アレンの元でパワートレーニングを学ぶ。日本とアメリカの自転車文化に詳しい。