パラリンピック2大会連続金メダル獲得 杉浦佳子インタビュー「次は原動力を与える側に」
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2大会連続のパラリンピックでの金メダル獲得。それまで抱えた思い、これからのことについて、杉浦佳子に聞いた。
金メダルを取ったロードレースについての詳細はサイクルスポーツ2024年12月号本誌にて。
3年間の新たなモチベーション
東京パラリンピックのロードTT、ロードレースでの金メダル獲得から3年。日本で金メダル獲得者の最年長記録を打ち立てた杉浦佳子(総合メディカル/TEAM EMMA Cycling)だったが、さらにパリパラリンピックで自らの記録を塗り替えた。
パラサイクリングの沼部早紀子ヘッドコーチは、「杉浦さんは年齢のことをよく言われるけど、そういったものを超越しています」と話す。
東京から3年、パリに向けた杉浦の新たなモチベーションは、トラックでメダルを獲得することにあった。
沼部ヘッドコーチは、杉浦についてこう語った。
「芯がアスリートで、自分のコミットしないといけないものを理解して行動しているんですよね。だからこそ(東京パラリンピックから)もう3年間できた。今回、トラックでメダルをとりたいとチャレンジをすることはすごいし、そこにチャレンジするモチベーションもすごいです。パラアスリートとして、若い選手に見習ってほしいところがあります。
『私なんて』と言いますけど、とにかく数字にこだわる選手で、タイム、パワー値、コンディションを徹底して把握している。金メダルを取ってからもその生活をしているんですよ」
トラック競技に関しては、杉浦からオリンピアンの飯島誠にパーソナルトレーナーをお願いしたことで変化があった。杉浦はこう話す。
「東京の次の年に(3㎞個人パシュートのタイムで)4分を切れて、世界選手権で銀メダルが2つ、次の年に金メダルが2つ取れました。これだけ面倒を見ていただいたのなら、次はトラックでメダルを、と思ってパリを目指そうと思いました」
飯島に師事を受ける中で杉浦は驚いたエピソードがあったという。
「ある日、連盟の合宿でパーソナルのコーチは中に入れないということで、飯島さんが『じゃあ観客席から見てるよ』と、1日観客席で見てくれていたんです。そしたら、観客席から見ていて『今日のペダリングがおかしい』と言ったんですよ。
確かにその日、タイムも悪くて。『サドルの角度おかしくないか見てみて』って言われて見たら、いつもより2度前下がりになっていたんです。そんなに遠くから見ていてもこの2度って分かるんですか⁉︎と思って。ペダリングが悪い原因はそこじゃないかと、見ていると分かるらしくて。そういうことも自分でまず分からないところがだめだなと反省したんですけど。
メカニックさんがすぐ直してくれて、そしたら良いタイムで走れて。本当にすごいなと思いましたね。ただ頑張るだけじゃない何かがあるなと思いました」
ハイレベルな争いの中での不調
8月28日にパリパラリンピックが開幕し、29日にトラック競技がスタート。しかし杉浦は、パリ渡航直前の最後の調整というところでぜんそくを起こしてしまっていた。渡航直前には何とか整えたものの、「精神的な調整がうまくいかなかった」と沼部ヘッドコーチは振り返る。
女子C1-3クラスの3㎞個人パシュートでは、3分53秒549という記録で予選5位。予選を通過することは叶わなかった。
「直前合宿で割と良いタイムが出ていたのでこれは私も自己ベスト(3分51秒563)が出るかなと思ってたんですけど、全く出なかった」と、杉浦は言う。
8月31日に行われた500mタイムトライアルでは7位だった。不調に加え、杉浦の狙っていたトラック競技は、世界のレベルがとてつもなく上がっていたのだ。
例えば、杉浦の出場した女子C3クラスでの3㎞個人パシュートにおいて、今回のパリで出された世界記録は3分41秒692。健常者の女子エリートの日本記録は3分28秒122ではあるが、24年インカレ女子優勝者の記録が3分46秒662であることを考えると、インカレで優勝するくらいでないと世界のトップとは戦えない。さらに一番障がいが軽い女子C5のクラスに至っては世界記録が3分27秒057という、日本記録を超えないと勝てないほどのレベルになっている。
「そのときは、ここまでいろんな人に指導してもらってきたのに結局ダメだったと思って。あのときはもうホテルの部屋に帰ってから、もう本当に消えてなくなりたいと思っていました。
でも全然大したことじゃないんですよ、別に私が金メダル取ったからといって何も変わらない。なのにそのときは本当にかなり落ち込んでいました」
しかし、そこからトラックでのトレーニングもロードレースに活かせるはずと切り替えた。本番のロードレースコースで練習ができなかったため、似たようなコースを探してトレーニングを行った。
9月7日のロードレースまでの間に幸いなことに体の状態も改善した。一方で、逆に体が休みすぎていて刺激が足りていないというメディカルトレーナーたちの意見をもとに、完全にオフを予定していた日に、刺激を入れるためにトレーニングを入れた。
すると、いつもどおりの良い数値が出せる状態に持ってくることができ、さらにはロードTTや他のクラスのレースもデータを取って作戦に組み込んだことでロードレースでの勝利を手繰り寄せた。
奇想天外、だからおもしろい
杉浦が思う自転車競技の魅力はこうだ。
「誰が勝つか分からないところじゃないですか。予想どおりの場合もありますけど、誰がどういうふうに勝つのかもう予想だにしないというか。今回もおそらく、もう佳子は体調も悪いし無理だろうってみんな思ってたと思うんですよ。それに、上りで(仕掛けて)くるって思われていたんですけど、今回攻めたのは下りだった。他の選手たちも多分対策してこなかったのでどういうふうにすべきかが、みんな分からなかったんじゃないかなと」
ロードレースでは、杉浦の言う魅力の部分をまさに体現した形となったのだ。
杉浦はもともと人と競うことが特に好きだったわけではないと話す。
「私はどちらかというとトライアスロンみたいに、完走することで喜びを見出せるタイプというか。最初にやったのもフルマラソンで、完走ができたらすごく感動、みたいな。その後、少しずつ自分のタイムを短縮していくことが楽しいみたいなところがありました。
とてもじゃないけど誰かと競うほどの能力はなかったし、ただこの前より速くなったとかが楽しくて。トライアスロンって年代別に世界選手権があるんですが、それに出てみたくてパーソナルのコーチをつけ始めました」
ロードレースを走っていても誰かに勝ちたいという思いがあるわけではないそうだが、実際に走っていると違う一面が出てくると感じるそうだ。
「自転車のロードレースってたぶん、性格がかなり意地悪じゃないとできないじゃないんですかね。運転すると性格変わるみたいなことがありますけど、今回、ここで置いていく!とか、めっちゃ性格悪!と自分で思いながら走っていました(笑)。
ロードレースよりも、どちらかというとタイムトライアルで勝ちたいなとは思って練習はしていました。そっちの方が向いてるかなと思うんですけど、それは私の表の顔で、裏の顔がロードレースで出てくるんだと思います。実は腹黒。それが本当の私です(笑)。今日は一緒に走ろうねって言いながらも、本当はそういうタイプなんじゃないかなと思います」
今度は誰かが”頑張れる”ように
大きな成績、そして記録を打ち立てた杉浦だが、今後やっていきたいことについて聞くと、「自分がずっと働ける仕事は何かしていたいなとか思っています」と話す。
資格を持ち、薬剤師として働いていた事故前からやりたい仕事が杉浦にはあったという。
「調剤薬局だと、どうしても患者さんのための薬局なんですよね。私がやりたかったのは、患者にさせないための薬局です」
何か病気で薬を服用することになったとき、今度はその薬の服作用を抑えるための薬を飲むことになり、どんどん患者が飲む薬は増える一方。少し頑張って運動をするだけで改善したとしても、そういった方向にはなりにくいそうだ。
「“頑張る”ことがあまり評価されない時代でもあるので……」
杉浦はさらにこう続ける。
「実際頑張りすぎてしまうから、そこで疲れてしまうというのもあるので、その辺の調整をしてくれるような誰かがいるといいのかなと思うんです。
私もそうなんですけど、自分だけでトレーニングをしているときは、やはり頑張りすぎちゃってけがをしたりとか、疲れて次の日のメニューがこなせなかったりとかがあって、その辺をパーソナルコーチにメニューをお願いすることによって改善されたんですよ。
だから、そういうふうに仕事にしても趣味にしても、何かそういうアドバイザーみたいな人がいてくれると、きっと“頑張る”が“楽しい”に変わると思うんですよね。無理しないでここまでだよっていう上限があって、時にはそれを超えて頑張ることも必要だと思うんですけど、そこの上限を見てくれる人みたいな、そういう人が側にいるとすごくいい社会になるんじゃないかなと思います」
無理なく頑張れる、そしてそれを楽しめる環境づくりについて、そして杉浦自身の原動力になったことについてこう語る。
「たまには無理するというのも、達成感に繋がるときもあると思うんですよ。こんな結果が出て頑張って良かったなって思えることもあると思うんですけど、頑張ったけれども何も結果が出ないとき、たぶん、みんなメンタルが苦しいですよね。
だからそうならない環境であったりとか、人間関係であったりとか、すごく頑張ってそれが数値で現れなくても例えば、褒めてもらえたりとか、お礼を言われるとそれだけで人って満たされるんじゃないかなと。頑張って良かったと思えるのはそこかなと思うんですよ。
やっぱり誰かに『ありがとう』と言ってもらえたりとか、誰かの喜ぶ顔を見たら、それって自分の頑張る原動力になるんじゃないかなと思って。だから自分もそういうことを伝えつつ、誰かがまた頑張りたいって思ってもらえるような、そういう人でありたいかなと思います。自分もそうやって頑張れてこられたので。この人の喜ぶ顔がまた見たいから頑張れるみたいな。それが自分の原動力だったので。
今度は自分がそうやって原動力を与える側、原動力の源みたいなものになれたら一番いいかなと。それで自分の今までの経験とか知識を生かせるそういうお仕事ができたらいいかなって思います」
競技の面でも国内で大きな壁になると杉浦は誓う。
「私が日本代表を辞めても、とりあえず私に勝たないとパラリンピックに出られないよ、ぐらいな、そういう存在ではいようかなと思ってます。目標にしてくれれば」
強豪国は、オリンピックのナショナルチームの強化とともにパラアスリートたちの強化も図ってきている。トラック競技の日本ナショナルチームも結果が出始めているだけに、杉浦の残した結果が遠い過去にならないうちにパラとも連携を深めていき、れっきとした強豪国としての地位を築いていきたいところだ。
これからはパラアスリートたちにもぜひ注目してもらいたい。