プロ選手からの引退を決めた初山翔 ”敵わない”世界を走るモチベーションの在り処
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カメラのレンズを前に笑ったその男に後悔の二文字はなかった
「やりきった、本当にやりきった。全然無念とかそういうのはないから、悲しまないでみんなって書いといてくださいよ」
悪戯っぽく笑いながら初山翔は、おそらく現役最後であろうインタビューを締めくくった。
2019年シーズンをプロコンチネンタルチームのNIPPO・ヴィーニファンティーニ・ファイザネで走った初山の引退が発表された。世界3大グランツールの一角、ジロ・デ・イタリアの完走をしたのは今年6月。世界トップの見えない背中を追った彼にはどうしても聞いておきたいことがあった。
ジロで見た歴然とした世界との隔たり
話は遡る。今年、NIPPOがジロに出られる、しかも日本人を出すということを聞いて、私は航空券を購入していた。本当は一部始終を見届けたかった。おそらく、もうそんな機会はそうそうやってこない。誰に聞いたわけでもないが、ただ何となくそんな風に思っていた。(その後、NIPPOは今年で解散という発表がされたからあながち間違ってもいなかったのだが。)結局折り合いをつけられず、ラスト4ステージを現地で過ごした。
それまでのステージは中継で見ていた。初山は2ステージで逃げを打った。久しぶりにグランツールを彩る新たな日本人が現れ母国を沸かせたが、正直見ていて、新城幸也や別府史之のような完走は”当たり前”という安心感は得られなかった。いつレースを終えてもおかしくはない。そう思っていた。
私が現地に入ったとき、初山は今までに見たことがないくらいに痩せこけていた。いつもテンションが高い方ではないだろうが、それ以上に低空飛行な、人間の省エネモードとでも言えばいいだろうか。とにかく疲れ切っていた。
総合勢にとって最後の勝負がかかる第20ステージ。20kmほどの上りが4つ入った超級山岳を車で走りながら、実際に目にするコースの厳しさに驚愕した。こんなところで”勝負ができる”選手なんて一体何人いるのかと。実際初山が言うに、スタートしてから10kmの平坦を終えて、約30km地点の時点で逃げグループ10人程度と総合を争う20人ほどしか勝負ができる位置にはいなかったそうだ。世界のトップでもそれほどの実力差が存在するのだ。
二つ目の山岳、チマ・コッピであるマンゲン峠で選手の通過を待っていると、逃げグループの後ろからマリア・ローザを着たリチャル・カラパス(モビスター)ら、そして彼らを追うプリモシュ・ログリッチ(ユンボ・ヴィスマ)たちが息の乱れも聞き取れないような速さで駆け抜けていった。勝負がかかっている分、もちろん厳しくはあるだろうが、後続の選手たちと比較するならば、”いとも簡単に”という表現を使いたくもなる。
彼らが通り過ぎてからいくつかの小集団が通り過ぎ、遠くの方に初山がチームメイトとともに姿を見せたのはおよそ16分後だった。最後尾ではないから完走はできるだろうと一安心したが、その表情、フォームを見たらもう「頑張れ」なんて声をかけられるわけがなかった。日本のレースで飄々と走る初山の姿とはかけ離れた姿。限界なんてもうとうに超えていたのだ。既にないものを振り絞って、空っぽの状態で食らいついていることはどう見ても明らかだった。
山岳ステージを全て終えた最終日の朝、シリアルをかき込みながら初山は「こっちは毎日毎日、全力で走っても最下位だよ」とはき捨てるように言っていた。
NIPPOのジロ出場メンバーが決まるか決まらないかの頃、ジロについて中根英登が話していた。「3週間あの”バケモノ”たちと戦わなきゃいけない」と。その意味がそこで初めて分かった気がした。いくらコンディションが良かろうと、いくら限界を超えようと、何なら何回生まれ変わろうとも、抗いようのないトップとの格の違い。テレビで見ているよりも何倍も何十倍も厳しく、悲惨だった。決して初山が弱いと言っているわけではない。どの日本人選手が走ったところで、そこまで大きな差はないはずだ。日本人は絶望的なほどの格の違いをおそらくあまり知らないままでいる。
最終日のTT、1番走者で3番目にヴェローナのコロシアムに入ってきた初山は、何だかすっかり霧が晴れたような清々しい表情をして、最下位の証マリア・ネラを受け取っていた。
チームメイトのフアンホセ・ロバトは、各ステージのコースマップが書かれたカードを1日走り終わるたびに捨てていったそうだ。それを21日間やり続けた。「これで終わりなんだ」、初山も噛み締めた。長い長い3週間がやっと終わったのだ。それは清々しい気持ちにもなるはずだ。
一方では、コロシアムの表彰式で、カラパスがマリア・ローザを着て、トロフィーを掲げていた。安堵とうれしさが入り混じり、まるで世界が変わったかのような優しげな表情をしていたのが忘れられない。どれほどの準備をして、どれほどの犠牲を払ってきたのだろう。そしてそれが報われたとき、人はこんなにも優しい表情をするのかと思った。今走っている日本人選手たちが、短い現役生活の中でこんな表情をできる日は来るのだろうか。
欧州で戦う日本人選手たちの一種の開き直りのような割り切った言動をしばらく不思議に思っていた。おそらくそれは、幾度となく突きつけられる圧倒的実力差を体感し、自身の立ち位置を把握したからこそ。実際に海外に行って、生活をして、走り続けた人しか分からない現実を受け止めた結果なのだろう。プロコンやワールドチームに登りつめた先に必ず当たる壁は、モチベーションの保ち方のはずだ。チームオーダーを守った上で、その先をさらに望み、貪欲に向こう見ずで意気込んだところで結果が分かっているというのは何と残酷なことだろうか。無謀な挑戦なんてとてもできなくなる。
それ故に世界最高の舞台を走った初山がどうやってモチベーションを保っていたのか。現役を退く決意をした初山に聞きたかったのだ。
「そこがずっと目指してた場所だったからじゃないですかね。
僕の場合、そこ(プロコン)にふっと入れたわけじゃない。
多くの選手たちが憧れる世界の舞台。初山は、29歳でやっとその切符を手にした。しかし、その場所に居続けることが実は一番難しい。
勝てないレースばかりの中で、一人のアスリートとして、自分が勝ちたいという思いはなかったのか。返ってきた答えは少し意外だった。
「正直、僕はNIPPOに2年間いたときに、こんなこと言っていいかわかんないですけど、勝ちたいと思ったことはないです。だって自分が勝てると思えなかった。そのレベルにたどりつけないと思ったから。自分が今までよりいい走りをしようとかそういう思いはあったし、自分ができることを何かして評価を得ようっていうのもあった。けど、ミーティングで僕が『勝ちます』って言ったって誰も信じないし、僕自身だって信じられない。だから勝てないことに対してのストレスってのはあんまりなかったんです」
”インターハイに出たい”から始まった自転車競技
高校1年生のときに初山は、あだち充作の漫画「タッチ」を読んで、インターハイというものに出るために自転車競技を始めた。部活も一から作った。他の選手が言うような、ジロやツールに出たいと思ったことは一度もなかった。
「そこが違ったんだろうなと思います。多分、僕がツールの優勝を目指すと言っていたら、もしかしたらまだ続けてたかもしれない。僕は一番最初は”インターハイに出たい”から始まってるから」
インターハイに出たいという夢は早くも1年で叶った。高3になると、日本代表に選ばれ、海外遠征にも行った。自然と選手というものを目指すようになった。高校を卒業し、実業団レースを1年走った後、現NIPPOの監督である大門宏の紹介でイタリアのアマチュアチームに入った。語学は習得したが、トータルで3シーズンをイタリアで過ごした初山は、「箸にも棒にも引っかからなかった」。
「全然走れないし、何も知らなかった。今思えば練習の仕方も知らなかった。その当時、今ワールドチームで活躍しているような選手、リッチー・ポートとかディエーゴ・ウリッシ、ラファウ・マイカなども同じレース出ていました。イタリアってカテゴリー分けがないから、自然淘汰的に弱い選手は辞めいく。違うスポーツ始めたりスポーツ自体を辞めたり……」
自分より強い選手たちがごまんと諦めていく姿を見ながら、初山自身も結果を出せず、精神的にも辛くなった。だが、U23の期間中まではやり切ると決めていた。しかしやはり何も残らなかった。選手を辞めようと帰国した際、当時宇都宮ブリッツェンの監督であった栗村修から誘いがあった。
「こんなに弱かったのに必要だって言ってくれる人がいるんだって思いました。あのときは本当に弱かった。アンダー1年目(イタリアに行く前)でJプロツアーを走ったときは結構走れたのに、ブリッツェン1年目のときは、そのときに比べても弱かったと思います」
イタリアでの3年間でフィジカル的にも精神的にも底をついた初山には、走ることに集中できる環境が必要だった。
「ヨーロッパを目指して選手をやりたいんだったら、
ブリッツェンで2年間走り、プロスポーツ選手としてのあり方を学んだ初山は、ブリヂストンアンカーへと移籍。アンカーに入って初めて自転車選手としてのトレーニング、そして走り方を学んだ。
当時フランスでヨーロッパツアーのレースを主戦場としていたアンカーのメンバーは、寮での共同生活を送っていた。同時期に所属していた清水都貴と井上和郎、正反対な性質を持つ二人の先輩からの影響は多大だった。
「練習とか生活を見て、僕がやってたのじゃダメなんだって気づきました。毎日こうやってやるんだって思ったことがありました。食事とかもそうです。都貴さんはすごい節制してやってたし、二人が全然違うタイプだったから、二人からそれぞれ違うことを教わった感じですね。
一般論を鵜呑みにせずに、独自の視点からいろいろ物事を見て、自分なりに考えてやるのが都貴さん。すごい突拍子もないことが飛び出してくるけど、でもちゃんと組み立てた理論があってそういうことを言う。和郎さんは、一般的な理論で、こうするべきだっていうのをみんなが道を逸れそうになったときに軌道修正してくれるような人だった。その二人に教えてもらいながら。パフォーマンスという意味でも僕が”選手”として始まったのはそこからですね。
レースの走り方も都貴さんに習いました。特にステージレースの走り方なんて何にも知らなかった。イタリアのアマチュアでステージレースは一回も出てないし、ブリッツェンのときに出たステージレースはツアー・オブ・ジャパンとかツール・ド・熊野とかありますけど、やっぱりちょっと違います。フランスのステージレースに出て、都貴さんが総合上位に入ったりするんですけど、そういうときにどう走るのかとか何にも知らなかった。トマ(・ルバ)が北海道総合優勝して、集団コントロールとかしたのも初めてでした」
アンカーにいた5年間も初山の選手としての最終目標は、一度U23のときに夢破れたヨーロッパでのトップカテゴリーのレースを走ることだった。ただ、ヨーロッパの選手たちに比べて段階を経るのが”遅すぎる”ことも自覚していた。
「アンカーでヨーロッパのレース走ってるときに僕が5勝くらいして、ヨーロッパのプロコンチでもなんでも声かけてもらえるっていうのが理想でしたけど、そんなわけにもいかず。数年経ったら、普通に呼んでもらうのは不可能だと思ったんですよね。この年齢でプロに行くっていうのはもう厳しいっていうのは感じていたので、スポンサーや紹介などコネクションを使うしかないと思ったんです。そういうものを得るためには肩書き的なものが必要だと思って、全日本選手権を目指すようになっていきました。都貴さんの目標にも全日本選手権の優勝があった。チームが全日本に向けてすごく集中していて、僕も一年目はアシストとして集中して走りました。その後、都貴さんが引退するってなって、自分の目標のためにもチームの目標のためにも全日本選手権っていうのをすごい重要視するようになりました」
そして2016年に全日本のタイトルを取った初山は、ステップアップに向けた材料を携えてチームを探した。しかしそう上手くはいかなかった。シーズンが終わる10月頃、ダメもとで大門監督にも頼んだが、「さすがに遅すぎる」との回答だった。
翌年もアンカーで走った初山は、ツアー・オブ・ジャパンで山岳賞を獲得。走っていたNIPPOの選手の目にも止まり、今度は大門監督から声がかかった。
翌年2018年に29歳という年齢でプロコンに入り、環境の差を思い知った。
「あそこに22~23歳のときに入れればまた全然違う未来があったのかなとは思います。当然あのカテゴリーに22~23歳で入るにはその前に何かしらの証明をしてじゃないといけないわけだから、そんな簡単に行けるわけじゃないですが……」
当たり前に200kmを走るようになり、毎日練習メニューが送られて来るようになってパフォーマンスも上がっていった。
達成感、成長幅を積み重ねた先
プロコンで走ったこの2年間で印象的だったレースを聞くと、ティレーノ~アドリアティコやミラノ~サンレモを挙げた。
「初めてのワールドツアーレースで、ティレーノなんてみんなにずっとびびらされていたから。『マジで速い』、『世界で一番キツい』みたいなこと言われて、実際めちゃくちゃ速かった。こんなスピードで自転車走れるんだと思ったくらいです。緩んでるときと上がってるときの差が激しいんです。キツいステージとか勝負がかかってるステージはずっと速いですけど……。その速さは尋常じゃない。平坦とかアップダウンとか、びっくりする。上りは速くてもついていけないからしょうがないけど、平坦はついていくしかない。
ミラノ~サンレモは、1月くらいから『逃げに乗れ』って言われ続けてて、すごく緊張してました。雨が降っていて寒かったし、絶対逃げに乗れって監督だけじゃなくてチームメイトにも言われて、逃げた後の補食の取り方まで説明されて。乗るのは当たり前で、『250km地点まではゆっくりいけ』みたいな話をされるんです。ジロの平坦の逃げなんて別にアタックすれば誰でも逃げられるんですよ。『はい、行ってらっしゃい』だから、1アタックで決まるんです。でも、サンレモはみんなが逃げたがるわけじゃないけど、競争率も高いし、何十分かアタック合戦して乗れた。あのときの充実感というか、幸福感はこの2年間で一番に近いかもしれないです。それかジロ走りきったときですかね。達成感っていう意味では同じくらいだったかもしれないですね」
そうやって自分のやるべきことを達成してきた。選手でいる間、毎年自分の中でのアップデートを図ってきた初山だったが、結果的にジロは一つの区切りを見せた。初山にとってのジロの完走は選手人生における満足感の一つとなっていた。
「世界のトップのレースを直接見られたっていうのは、自分が引退するときの満足感になるのかなと思います。一番上を見ることができたっていう。そんな簡単に到達できるところじゃないので。そりゃあ(アレハンドロ・)バルベルデみたいに世界のトップで走れれば、37、8歳になっても続けるかもしれないけど、努力すればみんなあそこに行けるわけでもないですから」
チームの解散が決まり、プロコン以上のチームでなければ、前年を越えるという自分の成長幅を確認する機会を得ることも難しい。だが目ぼしい話はなかった。それならばと、引退というカードを初山は選ぶ。
「来年のことを考え始めるタイミングになったときに、契約うんぬんのことだけじゃなくて、来年何をモチベーションに続けるのか、選手やるのかを考えたときに目標が思いつかなかったんです。
自分の才能もある程度見えてきたし、あとこの数年間で自分がしでかしたことを総合的に考えると、まあこれ以上のことはやらかせんだろうっていう風に思ったから辞めるんですよね。まぁネガティブな言葉を使っていうんだったら、ここが自分の才能的に限界だと悟ったというか。ただ、諦めたといえば諦めてるんですけど、納得して諦めているというか。全然悔しいとかいう思いはまったくなくて。逆にこんなにやれたんだって。もし悔しいっていう思いがあったら、チームのカテゴリーにこだわらず現役を続けてたと思うけど、そういう思いが全然ないから、だからスッキリと引退することができるんです」
切り替えが早い彼らしい引き際。ジロの最終日と同じ、本当に思い残すことが一つもないとでもいうような清々しい顔で目の前の人は笑っていた。だが人生はこれからが長いのだ。夢を追った彼の人生の第1章は幕を閉じる。また次に見る世界で新たなる夢を見つけていってほしい。選択肢はいくらでもある。”この人生は夢だらけ”なのだから。