日本スポーツ仲裁機構は8月3日、日本自転車競技連盟が示すオリンピック延期に伴うロード代表選手選考基準の見直しを不当とした宇都宮ブリッツェン増田成幸の申立を棄却した。改めてその内容とともに本人が語った思い、そして現状について整理をしていこう。
オリンピックというステータス
日本という国において、数多あるスポーツイベントの中でもオリンピックという大会に対する意識や認識は非常に高い。メダルを取ろうものなら生涯「メダリスト」と言われ、出場しただけでも「オリンピアン」という称号がその後の人生につきまとう。サッカーや野球など、メジャースポーツにおけるオリンピックの価値は少々見劣るものがあるかもしれない。しかし、マイナー競技におけるオリンピックでの活躍は、日本国民に競技を知らしめる数少ない手段と言ってもいいはずだ。
自転車競技、ことロードレースにおいては、ツール・ド・フランスを頂点としてヨーロッパが本場とされ、「ヨーロッパで戦ってこそ」といったようなヨーロッパ至上主義の考え方が多く用いられる。それが故に、ロードレースにおけるオリンピックの価値はさほど高くはないとされる(さまざまな見方があるために決して一概には言えないが)。その一方で、日本を生活拠点として考えたとき、世界の強豪がひしめくヨーロッパツアーで好成績をおさめるよりも“オリンピック出場”という肩書きの方がロードレースという競技を知らない人口の方が多いであろう日本では圧倒的に評価されることは(残念ながら)明らかだ。
しかも、来年に延期されたオリンピックの開催地は東京。今の現役選手たちにとって、母国で開催されるオリンピックに出られる機会など願っても得られるものではない。
日本自転車競技連盟(JCF)は、代表選手選考にあたり、2019年から約2シーズン分のUCIポイントに規定の係数をかけたもので競うことを決定していた。
なお、自転車競技の日本代表選考は、選考期間を満了した状態で内定選手が既に発表されているのがトラックとBMX(レース、フリースタイル共に)。MTBは、このコロナ禍の状況により早々に選考期間が切り上げられて決定がなされた。そんな中、ロードレースは出場枠こそ開催国枠の2枠(男子ロードレース、女子は1枠)が決まったが、まだ内定選手を確定していない。
コロナの影響による選考期間延長とそのあおり
昨年行われた東京オリンピックのプレ大会を走った増田
ここからは男子ロードレースの選考に限って話を進める。元々の選考期間は、2019年1月1日~2020年5月31日の予定だった。しかし、新型コロナウイルスの感染症COVID-19の影響により、2020年3月15日をもってUCIは、全世界的にレースをストップさせた。
選考も不透明になる中、JCFは2020年5月26日に「
オリンピック延期に伴うロード代表選手選考基準の見直しについて」を公表。それは、レースがストップした期間までの結果に、ワールドツアー再開の8月1日から78日間(従来の選考対象期間である2020年3月15日~2020年5月31日)分を選考対象として追加するというものだった。
実際に8月1日からワールドツアーは再開され、追加選考期間も始まった。片や、日本国内でのUCIレースはツール・ド・おきなわの判断を残すのみ(どちらにせよおきなわは選考対象期間外)で、全日本選手権を含む全てのUCIレースの中止が決定された。さらにはアジアツアーも現在予定されているレースはツアーオブタイランドのみ。しかしこれも、タイ到着後の14日間の行動自粛が求められるなど、日本から参加するのは費用面でも時間の面でも非現実的なのが実情だ。
この現状に対して不服を申立したのは、現状でランキング2位に位置する宇都宮ブリッツェンの増田成幸だった。
2019年1月1日~2020年5月31日 元々の選考対象期間
2020年3月15日 新型コロナウイルス感染拡大によるUCIのレース開催一斉中断
2020年5月26日 JCFがオリンピック延期に伴うロード代表選手選考基準の見直しを公表
2020年6月22日 JCFが2020年全日本ロードの開催中止を発表
2020年8月1日 UCIワールドツアーが再開
2020年8月1日~2020年10月17日 新たに決定された追加選考対象期間
男子ロード 代表選手選考ランキング(2020年8月20日現在)
1位 新城幸也(バーレーン・マクラーレン、ワールドチーム) 422P
2位 増田成幸(宇都宮ブリッツェン、国内チーム) 274.8P
3位 中根英登(NIPPO・デルコワンプロヴァンス、プロチーム) 258P
4位 石上優大(NIPPO・デルコワンプロヴァンス、プロチーム) 161.5P
5位 伊藤雅和(愛三工業レーシングチーム、国内チーム) 153P
申立の内容と下された判断
①申立人にレース中断前と同様のレース参加機会が与えられていないこと
②日本のプロチーム所属選手と欧州のプロチーム所属選手との間で、レースへの参加機会に不公平が生じていること
③追加選考期間の開始日をUCIワールドツアー再開予定日である2020年8月1日としているのは時期尚早であること
④同じ自転車競技であるMTBの代表選考基準との間に不合理が生じていること
⑤「機会」の置き換えを求めるIOCの要請に反していること
これに対してスポーツ仲裁パネルは、「新選考基準の取り消し」についての請求を棄却した。①~⑤に対して、以下のような判断を下している。
①と②に関しては、「レース参加機会の有無、参加機会の不公平は、いずれも新型コロナウイルスの感染拡大状況を踏まえた国内レース主催者の中止判断、または各国の入国・行動制限等によって生じたものである。国内レースやUCIレースの開催取りやめによるレース参加機会の喪失という結果は、新型コロナウイルスの感染拡大という状況下に生じた予測することが困難な事態であることより、新選考基準決定の当否を検討する際に考慮することは妥当ではない(一部抜粋)」としている。
③について、そもそもなぜUCIワールドツアー再開日を選考期間の再開日と合わせたのだろうか。
JCFのHPによると、「地域的な再開時差を避けるために、
世界的にある程度国境往来が可能になっている状況下での再開が想定されるワールドツアー再開に合わせることとした」とある。これに対して仲裁パネルは、「UCIの判断だけに依拠することなく、日本の状況に基づく独自の判断を下す余地はあったと考えられるが、他方、感染拡大状況が予測困難であり、追加選考期間設定の判断をUCIに依拠したことは、他により良い選択肢があったとしても『著しく合理性を欠く』と評価することまではできない」という判断を下している。
また、海外のレースに参加するためには、さまざまな準備や手続きのための時間が必要となる。各選手が新基準に則った活動計画と準備のための期間を要する中で、申立のとおり、追加選考期間の開始日を可能な限り最も早い時期に設定したことは時期尚早という見方もできる。これに対しては、「追加選考期間の設定をできる限り遅らせることで、その間に感染状況が収束に向かうことを期待することも考えられなくはないが、設定を遅らせれば必ず不公平が解消されると断言しうるものでもない」と判断した。
④のMTBの選考基準との整合性については、「ロードレースとMTBはまったく異なる種目であり、競技の性質、選手の状況、選手の実力等、さまざまな点が異なるため、結論が異なることもあり得るところである」と評価し、「合理性を欠くとは言えない」としている。
また、⑤の「期間」を置き換えただけで「機会」の置き換えになっていないという意見に対しては、「IOCは抽象的に方向性を推奨しているにとどまるものであり、個別具体的な置き換えの方法を支持するものと解することはできない」とした。
最後に、付言として以下のように記されている。
「感染拡大に基づくその後の事情の変化により、結果的にレース参加の機会を事実上失った選手を救済する必要性については十分に理解できるところである。一旦決定された選考基準が、それ自体は妥当であっても、決定時には予測し得なかった、その後の事態の変化により、選手間に著しい不公平・不平等が生じる場合、一般に、競技団体として選考基準の見直し、不利な状況に陥った選手の救済等の措置を講じることに期待したい。」
打ち明けた悲痛な思い
8月9日のJプロツアー宇都宮ロードレースでは、珍しく明らかな不調によりリタイヤした
国内チームである宇都宮ブリッツェンは、昨年から増田成幸のオリンピック出場に向けてアジアツアーへの遠征など、UCIポイントを獲得するためのレーススケジュールを組んで活動しており、ヨーロッパでのレースに比重が置かれる選考基準を重々承知の上で、元々の選考期間に集中して選考争いに挑んでいた。
しかしこの感染症の蔓延(まんえん)により、現在続行している追加選考期間内で、国内+アジアのUCIレースを走るはずだった増田は八方塞がりな状況。他方、新城幸也やランキング3位につける中根英登が主戦場とするヨーロッパでは、感染拡大前までとはもちろんいかないがレースも行われてきており、実際にUCIポイントがつくようなレースへの出場機会は得ている。そんな現状に増田は、悲痛な思いを吐露する。
「少しでも自分にとって不利益な新基準を変えてもらいたくて、仲裁の場を借りて申立をしました。どこも行けないとなると、ちょっと辛すぎますね……これまでの選考期間がなかったことにされているような気持ちになってしまって……。
仲裁の付言があって、そこに望みをつなげる、これで完全に終わりじゃないっていうふうに含みを残してくれていました。そこでJCFがどういう救済措置とってくれるか。今、弁護士さんを通じて、何かしらの救済措置をとお願いしてるんですけど、このままレースがないのは残念というか……辛いですね」と口をつぐんだ。
日本のトップチームでベテランクライマーとして活躍をし続ける増田自身、選手人生の集大成を懸けた選考でもある。また、東京オリンピックの獲得標高4865mという超難関コースに適性も感じていた。
「選手同士は誰も悪いことしてないし、みんな一生懸命やってるだけなんですよね。こんな世界的にも安定しない状態の中で、どうにもやり切れないですね」
そう言って増田は顔を歪めた。誰かが傷つくようなこともしたくないと嘆く増田本人も大きな不安やストレスを抱え、体に支障をきたすほどに精神をすり減らしているように見えた。
ただ、何もせずただ空中に向かって不平等を訴えるよりも、こうしてしかるべき場所を通じて意見をすることは必要であるようにも感じる。
それぞれの立場での難しさ
昨年のジャパンカップでわずかながらUCIポイントを加算させた増田と新城
レースが中断される前に参加したアジアツアーで調子の良さを見せた中根は現在ランキング3位につける
増田の新選考基準の取り消しに関する申立は棄却となったが、この判断が果たして本当にヨーロッパのチームに所属する選手たちに有利となったという結論で片付けられるのだろうか。決してそんな単純なものだとは言い切れないように思う。
確かにUCIポイントのつくレースに出場する“機会”はあるかもしれない。しかし、直近のヨーロッパツアーのレースを見ていて思うことは、例年以上に一つ一つの争いが激化しているということ。ワールドツアーの下のカテゴリーとなるヨーロッパツアーですら、今まででは出場していなかった格上のチームや選手が流れている。例を挙げるならば、過去に新城幸也が総合優勝経験を持つツール・ド・リムザンの今年のワールドチーム出場数は5チーム、昨年や一昨年では2チームだった。これは、グランツールのための調整となるレースが極端に少ないことも起因していると考えられる。
レースに出場して、さらにUCIポイントを取る“機会”を得るには今までとは比にならないほど厳しい戦いを強いられるに違いない。その上、ヨーロッパのチームに所属する選手たちは各々に与えられた仕事をこなす必要もある。
日本だけでなく、ヨーロッパでも感染の再拡大は徐々に現れ始めている。いつレースがなくなるか分からない中で、一つでもこのシーズン中に結果を残さなければならないと考えているチームも選手も山のようにいるはずだ。
もしかするとワールドチームやプロチームに所属する日本人選手が激戦の合間をぬってポイントを加算できるかもしれないし、このまま誰もポイントを取ることができずランキングに変動がないまま選考期間が終了するかもしれない。
それでも今回の判断によれば、増田は日本でただ指をくわえて待つことしかできない。今持っているポイントからそれ以上の加算に向けて勝負をする“機会”もない増田や他の国内選手たちが不利な立場にあるということは一つの現実だ。
「その中でやれることを探して、JCFに救済措置という形でお願いして行くのもそうですし、やれること探してやっていきたいですね」
本来であればとうにオリンピックは終わっているはずだった。何が起こるかも分からない先を見据えて、ひたすらに前を向くしかできないのは増田だけではないだろう。
そもそもオリンピックが来年本当に開催されるかだって定かではない。いまだ猛威をふるい続けるこの感染症への完全な防御策に目処が立っていないのだから。
もちろん全世界の人々の健康が第一優先なのは分かっている。その上で、ここまで情熱を懸けた人たちの思いを置き去りにして“幻の東京オリンピック”になっては欲しくないと願うばかりだ。