日本人が初めてフランドルを走った日 三船雅彦インタビュー
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photo:Masahiko Mifune
今週末はいよいよツール・デ・フランドル。“モニュメント”と称される北のクラシックを象徴するレースだ。
1999年日本人として初めてツール・デ・フランドルに出場を果たした三船雅彦さんにピークス・コーチング・グループの中田尚志さんが話を聞いた。
三船さんはベルギー国籍のプロ・チームに所属し、1999年と2001年の2度、フランドルに出場。ベルギー人選手でもひるんでしまうような石畳や悪天候をものともしないタフな選手として知られた。
メンバー選考のプロセスについて教えて下さい。
フランドルは、シーズンのひとつのピーク。所属していたトニステイナー–コルナゴは、前年の98年、当確と言われていた出場を逃しました。当時はベルギー国内で新聞報道されたほどチームが招待されなかったのは予想外の出来事でした。
それもあり翌99年はフランドルに向けてチーム全体の士気は高かったです。1月からセレクションが始まり石畳の下見もチームで入念に行いました。各選手も気合が入っていてチーム・トレーニングから緊張感が違いました。
出場枠8人のうち、3人は主力選手で構成するため自然な流れで決定。それ以降のメンバーをフランドルに至るまでに選考していく感じでした。
北のクラシックは2月最後の週末のヘット・フォルクとクールネに始まり、ノーケレ、ドワルスドール、E3、ブラパンツペイル、デパンヌと立て続けにレースが行われます。その中でメンバーが絞られていくわけです。
特にこの中でドワルスドールとE3を走らずにフランドルを走る選手は稀です。E3のメンバーには選ばれていましたから選考に入っているのは分かっていました。
E3が終了した更衣室で監督から「フランドルはお前を連れて行く」と告げられました。ノーケレとドワルスドールでの走りが認められたのだと思います。
フランドル当時に住んでいた場所はどこですか?
フランドルのスタート地点にほど近いハレルベケに住んでいました。
半数をベルギー人が占めるベルギー国籍のチーム。そこでフランドルに選抜される難しさについて
所属していたトニステイナーはベルギー国籍のチームで、メンバーもベルギー人中心です。チームメートが落選を知った時、「何で俺が選ばれなくて、そこの黄色い奴が選ばれるんだよ!」と悪態をつきました。
それまで私をファーストネームで呼んでくれていた彼の言葉にショックを受けるよりも自身が認められた、自身が戦いの中にいるのだと実感しました。フランドルはベルギー人にとって絶対的な存在。その中で選考に勝ち抜いた誇りとして記憶しています。
デパンヌの3日間
初めて出場した99年はメンバーには選ばれたものの、そこまで強くなかった気がします。
二度目の出場となった2001年の方がプロとして何が出来るかを把握出来ていましたし、選手として成熟もしていました。
99年と2001年はレースプログラムが異なります。99年はデパンヌを走らずフランドル出場。2001年はデパンヌを走った直後にフランドルに入りました。
当時デパンヌはフランドルの週に行われる3日間のステージレースでした。コースも似通っているのでフランドルに出場する多くの選手が調整としてデパンヌにも出ていました。
99年にデパンヌに出場させないと監督に言われた時は、「何故?」と疑問がわきました。レーススピードでコースを予習することも出場メンバーの脚を確認することも出来ないですから。
しかし、2001年にデパンヌを経てフランドルに出た時は前回監督が私を走らせなかった理由が分かりました。調整レースとして走るにはデパンヌはキツすぎるのです。デパンヌを走って調子を崩しフランドル本番に良い状態で入ることは出来ませんでしたね。
フランドル出場が当時の第一目標でしたか? それともそれ以外のゴールがありましたか?
フランドルは最高峰のレースに違いないです。しかし、プロのシーズンは2月から10月まで続きます。シーズンを通しての働きがチームの評価につながりますから、フランドルが唯一のゴールというわけではありませんでした。
私は他の選手が疲れてくる夏から秋にかけてコンディションが上がるタイプでした。そのためシーズン後半のレースを狙っていました。自身の仕事を認められ、来季契約をチームと交わすことを考えた時、チャンスのないフランドルに全てをかけるよりもシーズンを通して自身に何が出来るのかを優先に考えていました。
実は一時期、パリ〜ルーベの出場権を持つチームに移籍を考えたことがあります。パリ〜ルーベに出るのはひとつの夢だったので心は揺れました。でも今思い返すと移籍しなくて良かったと思います。自身にフィットしたレースに出場するのは明らかにトニステイナーでしたから。プロとしてシーズンを走る中で1レースの為に他の全てのレースを犠牲にする理由はないわけです。
2002年秋のクラシック、プテカペーレンではトム・ボーネンに先着して4位でした。後ろにはスベン・ネイス、セルバイス・クナーフェンも居ました。春先のボーネンやクナーフェンと勝負するのは不可能ですが、秋にはチャンスがあると感じていました。そうすると春先に出し切るよりも秋に勝負をかけるほうが賢いわけです。
ベルギー人からフランドリアンと呼ばれた理由は?
石畳はデコボコが激しく疲労します。ですからフランドリアン(フランドル地方の人)も好んで石畳には行きません。例えば多くの選手はフランドルで使う石畳のヘラールス・ベルゲンを避け、横に通っている舗装路をトレーニングに使います。しかし私は石畳の方を好んでトレーニングに使用していました。パーテルベルグなんかもよく使いましたね。
北のクラシックは中世から残された石畳をつなぎ合わせてコースを作ります。そのために多くのチームや選手は走っている内に一体どこに居るのか分からなくなります。
しかし、私は、ベルギー国内のどこにどんな石畳があるかは熟知していましたから、そんなことはありませんでした。
ある時、私があまりに石畳に詳しいのでベルギーの選手から「あいつはフランドリアンだよ」と呼ばれたのです。
バイクについて聞かせてください。
バイクはチームスポンサーから供給されたものを使っていました。ですから特に何が好きという感情もありませんでした。供給されたものを使いこなすのがプロだからです。当時、プロのプロトンではスチールとカーボン素材のフレームが混在していました。チームのスポンサーであるコルナゴはスチールのマスターとカーボンのC40をラインナップしていました。
またチタンとカーボンのハイブリッドに乗っていた時期もありましたね。このバイクは⻑いレースを走って疲労した状態でのスプリントでよく伸びるバイクでした。
三船雅彦
欧州のロードレースをジュニアからワールド・ツアーレベルまで経験した数少ない選手。現役時代はハードなコンディションのレースを得意にし、ツール・ド・フランドル、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュにも参加。
日本体育協会公認コーチ
滋賀県守山市自転車特命大使(2018年〜)
福岡県直方市自転車アドバイザー(2018年)
ツアーオブジャパン京都ステージアンバサダー(2017年〜)
ニセコクラシックアンバサダー(2017年〜)
守山警察署サイクルポリス名誉隊⻑(2018年)
シクロクロス日本代表チーム監督(2019年〜)
中田尚志
ピークス・コーチング・グループ・ジャパン代表。パワートレーニングを主とした自転車競技専門のコーチ。2014年に渡米しハンター・アレンの元でパワートレーニングを学ぶ。